朝鮮戦争、平野文書
 
 昭和21年、4月10日総選挙が行われた結果、衆議院は、自由党(総裁 鳩山一郎)140名 進歩党(代表 齋藤隆夫)94名 社会党(中央執行委員長 片山哲)92名、協同党(委員長 山本実彦)14名、共産党(書記長 徳田球一)5名などというものであった。
 幣原は、明治憲法の規定により後継内閣奏請の義務を負っていた。彼は4月17日記者団との懇談で
 「・・・・従来の如き政治理念や政治運営では絶対に切り抜けられないものと確信する」
 として、なお政権を維持しようとしたが、選挙で選ばれた各政党、そして言論機関から一斉に非難攻撃を受けた。その攻撃に折れて、ついに4月22日総辞職を断行した。
 次期総理大臣となる予定であった自由党の鳩山一郎は、就任を目前にして総司令部が、鳩山が戦前の統帥権問題を発生させたことなどを問題視し、公職追放にしたことはすでに述べた。
 鳩山は、1930年のロンドン海軍軍縮条約の批准をめぐって「内閣が軍縮問題を云々することは天皇の統帥権の干犯に当たる」として浜口内閣を攻撃し、浜口雄幸狙撃事件の遠因となった人物でもあり、また、狙撃事件後傷の癒えぬ浜口に執拗な登院要求を行ったのも鳩山であった。浜口は傷口が十分回復しないまま登院したが、五ヶ月後に死去している。統帥権干犯論は議会の軍に対するコントロールを弱めるものであったため、これを根拠として軍部が政府決定や方針を無視して暴走し始め、以後、政府はそれを止める手段を失うことになっていく。鳩山は、対立する立憲民政党政府を苦しめるように企画したようだが、議員として政争に明け暮れて大局を見失っていたことになる。総司令部は、「軍部の台頭に協力した軍国主義者」として、鳩山を公職追放にしたのだった。5月4日のことだった。国会は混迷したが、最終的には吉田茂を首相とする内閣が5月22日成立した。

 憲法九条に関しては、前項で述べたように芦田修正を経て、確定したため、11月3日に明治欽定憲法が廃止され、11月11日に国会は閉会となった。
 幣原は、翌日の11月12日に進歩党の近畿大会であいさつし、第一に国民の結束を訴え、第二として憲法九条について次のように述べている。

『・・次に新日本の第二要素は、国民挙って平和に終始する決意であります。憲法第九条は戦争の放棄を宣言し、わが国が全世界中最も徹底的な平和運動の指導的地位に立つことを示しています。この規定をもって一片の空理空論なりと冷笑する批評家は、やがて近代科学の躍進にともなう破壊的兵器の新発明が人類の生存に如何なる脅威を与えるかを悟らないものであります。国家の自衛権は認められるべきものであるとか、ないとかいう議論は人類がなお今後の大戦争に耐えて、生き残りえられることを前提とするものである。かかる前提こそ、全く空理空想と申さねばなりませぬ。人類が絶滅しては国家自衛権なるものも、果たして何の用をなすものでありましょうか。元より世界の現状においては、我国独り国際関係の広漠たる原野に戦争放棄の大きな旗をかざして行進しつつあるのでありますが、おって従来使用された兵器に比して幾十倍、幾百倍の破壊力ある攻撃の装置が発明される暁には、列国の民心ははじめて事態の重大性に目覚め、戦争の放棄を要求する大勢は、世界を風靡するに至らざるを得ないでありましょう。ことここに至らば、我国は文明養護運動の尖端にたった先見の明を誇り得るでありましょう。』(『幣原喜重郎』715ページ) 

 次いで第91臨時議会が11月25日に召集された。この議会では既に交付された新憲法の付属法規である皇室典範や内閣法、そして待遇改善などの追加予算案の審議を行ったうえ、12月26日に閉院し、翌27日から第92議会に移行した。この議会において政府提出法案71件(衆議院議員選挙法、教育基本法、国会法など)全部を審議し、さらに予算案を可決したうえ、翌昭和22年3月31日に解散した。これをもって明治欽定憲法下の最後の帝国議会となった。
 この間、進歩党は解散し、民主党となっていた。4月25日に改めて衆議院議員総選挙が行われた。幣原は大阪府第三区より立候補し、7万5000票でトップ当選している。旧憲法から新憲法への移行期で政治も大きく変わろうとしていた。幣原喜重郎を中心として昭和22年からの数年間を年表風に描くと次のようになる。 
 昭和22年(1947年)
  5月18日   芦田均が自由党を率いて進歩党を率いる幣原と合流し、民主党を結成。幣原は名誉総裁、芦田は総裁となった。幣原は不満であったようだが、いったん決まった以上は衆議に従うという           態度を貫いた。芦田は、幣原を抑えて、日本社会党、民主党、国民協同党と連立して片山哲内閣を成立させ、芦田自身は副総理格で片山内閣の外務大臣となる。
 11月25日   片山社会党内閣が成立を目指す臨時石炭鉱業管理法案(石炭鉱業を国有化するというもの)について、幣原とその同志24名は、「国有化に賛成する」という討議拘束を無視して、反対票を          投じた。その後、幣原以下20名が離党し、「同志倶楽部」を結成。
 昭和23年(1948年)
  2月14日   社会党の片山委員長を総理大臣とする片山内閣が総辞職。
  3月10日   芦田均が社会党と連立内閣をつくり、内閣総理大臣となる。 一方民主党は、幣原率いる「同志倶楽部」と合流して「民主自由党」を結成。
  3月      マッカーサーは、アメリカ陸軍省から派遣されたウイリアム・ドレーパー・JRとの会談で日本の再軍備の検討について言及し、これをきっぱり拒否。その理由として
            (1) 周辺諸国の反対
            (2)  アメリカの威信が低下する懸念
            (3) 日本には外敵(ソ連)から守りうるような強力な軍備を築く国力が欠けていること
            (4) 経済復興の妨げになること
            (5) 日本人に再軍備の意思がないこと
           という五つを掲げた。
  10月7日   芦田内閣が総辞職し、第二次吉田内閣が成立した。
  12月23日  衆議院が解散し、新憲法の下で最初の総選挙に臨んだ。
昭和24年(1949年)
  1月23日   新憲法下で初めての衆議院選挙。民主自由党が264名の絶対過半数を獲得して第一党となった。幣原は、大阪府第三区で第二位で当選した。 
   2月1日    幣原 衆議院議長となる。
 昭和25年(1950年)
  3月1日    民主自由党は党名を自由党と改称した。
  4月19日   アメリカの国務省、国防省、総司令部の間を調整し、条約を早期に締結する役割を与えられたジョン・フォスター・ダレスが国務長官顧問に任命される。
  6月      ダレス来日。吉田と会談。ダレス、平和条約と引き換えに本格的再軍備を要求。吉田は言を左右にして言質を与えず、ダレスを困惑、憤慨させる。
  6月25日   朝鮮戦争勃発
  7月8日   マッカーサー書簡によって警察予備隊創設,海上保安庁要員8000人の増員(一種の治安部隊、自衛隊の前身)
          マッカーサー 国連軍に仁川上陸作戦を指示。その成功によって国連軍反撃に転じる
 
 この間、幣原とマッカーサーが戦争放棄条項について二人の意見が交錯する小さなエピソードがある。昭和25年5月3日のこと、幣原は衆議院議長として、憲法記念日の式典終了後の午後六時半に衆議院事務総長の大平眞とともにマッカーサーを訪問した。朝鮮戦争が始まるのは、6月25日であるから、その50日程前のことである。その時マッカーサーは幣原に次のように述べたことを大平は記憶している。
 『自分は日本進駐まで武力による破壊行為だけ続けてきたが、これからは平和の建設に全力をささげるつもりである。しかして日本国憲法制定にあたり、幣原君は日本に一切の戦力を放棄する、といわれたが、私はそれは50年間早すぎる議論ではないかというような気がした。しかしこの高遠な理想こそ世界に範を示すものと思って深い敬意を払ったのであるが、今日の世界情勢からみると、何としても早すぎたような気がする』
 この発言に対して幣原は苦笑いをして聞いているだけであった、という。そうして間もなく朝鮮戦争が起ったのであった。
 朝鮮戦争のさなか、幣原は読売新聞に『外交五十年』として昭和25年9月5日から11月4日まで連載した。これは彼が外務省に入省した明治23年ごろから、太平洋戦争終結後に戦後二人目の総理大臣となった昭和21年のことまでを口述筆記の形で記していた。幼少時に過ごした門真のこと、外交官となって暮した外国での生活、ワシントン軍縮条約の締結に至るまでの話、高橋是清との交遊、日露戦争開戦時の逸話、デニソンから聞いた日露戦争開戦時の電文の内容などである。そして、連載の最後に『軍備全廃の決意』として、憲法第九条を発想するに至った経緯について次のように述べている。

 私は図らずも内閣組閣を命ぜられ、総理の職に就いたとき、すぐに私の頭に浮かんだのは、あの電車の中の光景であった。これは何とかしてあの野に叫ぶ国民の意思を実現すべく努めなくてはいかんと、堅く決心したのであった。それで憲法の中に、未来永劫そのような戦争をしないようにし、政治のやり方を変えることにした。つまり戦争を放棄し、軍備を全廃して、どこまでも民主主義に徹しなければならないということは、他の人は知らないが、私だけに関する限り、前に述べた信念からであった。それは一種の魔力とでもいうか、見えざる力が私を支配したのであった。よくアメリカの人が日本へやってきて、今度の新憲法というものは、日本人の意思に反して、総司令部の方から迫られたんじゃありませんか、と聞かれるのだが、それは私に関する限りそうではない。決して誰からも強いられたのではないのである。
 軍備に関しては、日本の立場から言えば、少しばかりの軍隊をもつことはほとんど意味がないのである。将校の任に当ってみればいくらかでもその任務を効果的なものにしたいと考えるのは、それは当然のことであろう。外国と戦争をすれば必ず負けるに決っているような劣弱な軍隊ならば、誰だってまじめに軍人となって身命を賭するような気にはならない。それでだんだんと深入りして、立派な軍隊を拵えようとする。戦争の主な原因はそこにある。中途半端な、役にも立たない軍備をもつよりも、むしろ積極的に軍備を全廃し、戦争を放棄してしまうのが、一番確実な方法だと思うのである。
 もう一つ、私の考えたことは、軍備などよりも強力なものは,国民の一致協力ということである。武器をもたない国民でもそれが一団となって精神的に結束すれば、軍隊よりも強いのである。例えば現在マッカーサー元帥の占領軍が占領政策を行っている。日本の国民がそれに協力しようと努めているから、政治、経済、その他すべてが円滑に執り行われているのである。しかしもし国民すべてが彼らと協力しないという気持ちになったら、果たしてどうなるか。占領軍としては、不協力者を捕らえて、占領政策違反として、これを殺すことが出来る。しかし八千万人という人間を全部殺すことは、何としたって出来ない。数が物を言う。事実上不可能である。だから国民各自が、一つの信念、自分は正しいという気持ちが進むならば、徒手空拳でも恐れることはないのだ。暴漢が来て私の手をねじって、おれに従えといっても、嫌だといって従わなければ、最後の手段は殺すばかりである。だから日本の生きる道は、軍備よりも何よりも、正義の本道を辿って天下の公論に訴える、これ以外にないと思う。
 ・・・・・・日本においても、生きるか殺されるかという問題になると、今の戦争のやり方で行けば、たとえ兵隊を持っていても、殺されるときは殺される。しかも多くの武力を持つことは、財政を破綻させ、したがってわれわれは飯が食えなくなるのであるから、むしろ手に一兵を持たない方が、かえって安心だということになるのである。日本の行く道はこの他にない。わずかばかりの兵隊を持つよりも、むしろ軍備を全廃すべきだという不動の信念に、私は達したのである。 

 このように述べた後、幣原は、最後に『・・・昭和二十年に隠棲の宿志を果たすことができず、現在に至るまで公人生活を続けているが、回顧録としてはあまりにも生々しいので、それは次の機会に譲る』とし、連載を終わった。
 このころ、朝鮮戦争の継続に伴って、アメリカから日本にも西側諸国の一員として再軍備を求める声が大きくなっていた。昭和25年(1950年)の晩秋、金森(徳次郎)国会図書館長は、幣原に向って、「最近アメリカで『日本の政治再編成』という総司令部の報告書が発表せられ、そのうちに当時の幣原首相はじめ関係者の名前が出てきたり、活動の状態が記述されているのみならず、ずいぶん機微にわたることも書かれている。これに対し、日本側でも記録を作って置かなければならない。そのことになると、あなたご自身しか知らないことが随分多いから、此の際是非お話をうかがっておきたい」
と希望したことがあった。しかし、幣原は
「そのことをお話するのはまだ時期が早い。それよりもまず本を読んでからことにしよう」
といって何も語らなかった。 
 
 朝鮮戦争は1950年の11月、中国が義勇兵という形で戦争に介入してきて、再び北朝鮮軍の勢いを盛り返し、こう着状態となっていた。そんななか、昭和26年1月末、ダレスが再来日し、講和条約についての本格交渉が開始された。吉田は依然として再軍備を拒否したが、ダレスの要求は強硬で、吉田は譲歩を余儀なくされ、
    (1)警察予備隊とは別に五万人の保安隊を設け、これを正式の軍隊の発足とする。
    (2)国家保障省を設けて、この下に参謀本部の母体として保安企画本部を置く
という提案をアメリカ側に示した。この際、秘密裏に「日米の安全にかかわる条約は、吉田が自ら細密にわたって作ること」とし、講和条約と日米安全保障条約をセットにするという約束までなされのであった。
 幣原は衆議院議長として、精力的に職務をこなしていた。昭和26年(1951年)3月8日、ちょうどこの日は大勢の小学生たちが国会参観に来ていて、裏庭に集まっていた。彼は帰邸のため、自動車に乗ろうとしていたが、小学生たちに対し手を振りつつ
「皆さん、しっかり、おやりなさい」
と、老顔をほころばして言ったという。翌9日の朝、幣原がいつものように朝食に起きてこないので、様子が変だ、と思った家人が様子を見に行ったところ、彼はすでに床の中で意識不明であった。病院から医師が駆けつけ注射もしたが間に合わず、枕元には幣原の妻と秘書官の岸倉松、医師と看護婦の四人だけで、そのまま往生を遂げた。かくて憲法第九条の成立に至る詳細な話は、幣原自身の口から公にされることはなくなったのであった。
 こう着状態が続く朝鮮戦争は、中国東北部に強硬な軍事行動を主張するマッカーサーが、トルーマン大統領から召喚命令を受け日本占領軍最高司令官の職を解任され、帰国することになった。
 マッカーサーは帰国後の5月初旬アメリカ上院軍事外交合同委員会に出席して陳述し、戦争放棄条項の着想のイニシアチブは当時の首相である幣原の熱心な主張によるものである、と述べた。この公聴会第二日目(5月4日)における議事録は「日本の戦争放棄の提案と幣原首相との関係について」というものであり、マッカーサーのおこなった証言は、次のように記述されている。
『「マクマホン議員が“ところで、元帥。われわれがすべての事項を解決するような方式を見いだせる希望をあなたはお持ちですか。”と問うたのに対してその答えとしてマッカーサー元帥は「それは戦争の放棄です」と答えた後、次のように述べた。』(引用は、『幣原喜重郎』幣原喜重郎平和財団編より)

 “そしてわれわれがこの基本問題に取り組めば取り組むほどその問題を解決することは・・・・困難でありません。私はそれをしなければならないと信じます。”現に日本人にはそれの立派な確証がありました。あなたは広島と長崎のことを言われました。それで日本人は、世界中のどこの国民にもまして、原子戦争がどんなものだか了解しています。彼らにとって、それは、理論上のことではなかったのです。
  彼らは死体を数え、それを埋葬したのです。彼らは自分の意思でその憲法の中に戦争放棄の条項を書きこみました。首相が私のところに来て、“私は長い間考えた末、信ずるに至りました。”といいました。彼は極めて賢明な老人でした。−最近亡くなりましたがー。“長い間考えた末、この問題に対する唯一の解決策は戦争をなくすることだと信じます。”といったのです。そしてこういいました。“軍人としてのあなたに、この問題を差し出すのは非常に不本意です。なぜなら、あなたがそれを受け入れないものと信じているからです。しかし、私は今われわれが起草中の憲法に、このような条項を挿入するように努力したいと思います。"
  そこで私は立ちあがってこの老人と握手し、彼に向い、“それこそは恐らく講じ得るもっとも偉大な建設的処置の一つだと考える。”と言わないではいられませんでした。
  私は彼に、彼が世界から嘲笑されるということは実際にありうるといいました。御承知のように、今は暴露時代であり、物事を冷笑的な態度で見る時代ですからね。世界はそれを受け入れますまい。それは嘲笑の的になるだろうし、またそうだったのです。それを貫徹するには大きな道義上の気力が必要になるだろうが、究極においてそのような気力は、その方向を維持できなくなるかもしれない言いました。しかし、私は彼を元気づけました。そして日本人はその条項を憲法の中に書き入れたのです。
 そしてその憲法の中で、日本人の一般的感情に訴える条項があったとすれば、それは戦争放棄の条項でした。何世紀もの間、戦争に勝ち、戦いを追求してきた一民族がありました。しかし原子爆弾が彼らに教えた偉大な考え、偉大な教訓は理解されました。彼らはそれを実地に適用しようと努めていました。」 

 その後、1955年に自由民主党政権が成立した。『ウィキペデア』によれば自由民主党は、結党時は総裁をおかず総裁代行委員を四人(鳩山一郎首相・前日本民主党総裁、緒方竹虎前自由党総裁、三木武吉前日本民主党総務会長、大野伴睦元衆院議長)設置した。 その中心的存在であった鳩山は、自民党の結党時から「押しつけ憲法を廃し自主憲法を成立させる」という改憲を党是とした。これには終戦直後、選挙によって第一党の総裁となったものの、統帥権の独立を積極的に推し進めたという戦前の政治活動によって公職追放となった鳩山のアメリカに対する恨みのようなものもあるのかもしれない。自民党は、野党で護憲を党是とする社会党と二大政党となった。そうして細川内閣の成立によって1993年に自民党政権が野党となるまで、40年間、いわゆる55年体制という政治状況を作っていった。この中で改憲は、党内にも護憲を標榜する一部の勢力(たとえば自民党の総裁となった三木武夫などは護憲であった)はあったものの、自民党の一貫した政治姿勢であった。
 このような政治状況の中で、1956年6月11日、憲法調査委法に基づき、内閣に憲法調査会が設置された。構成は委員総数50人以内(うち国会議員30人以内、学識経験者20人以内)で、委員間の互選により、会長1人、副会長2人が互選された。他に必要に応じて専門委員を増置するほか、常設の事務局が庶務を処理した。憲法調査会は、東大教授高柳賢三を委員長として、8年間の調査活動を行い、1964年7月3日に内閣と国会へ「憲法調査会報告書」を提出し実質的な活動を終え、1965年(昭和40年)6月3日に廃止された。
  このなかで登場するのが1964年3月に公開される平野三郎氏の文書である。 平野三郎は、明治45年岐阜県郡上八幡町生まれ 昭和22年郡上八幡町長 昭和24年衆議院議員。以後連続5期当選。昭和41年以後 岐阜県知事を三期勤めた。彼は、1950年当時、幣原の秘書役としてあった人で、幣原が亡くなる十日ほど前、彼から聞いた憲法第九条成立にまつわる話を文章化して残していた。平野氏は、幣原から口外しないように言われていたのであるが、憲法調査会事務局の求めに応じて昭和39年(1964年)2月に公開している。『はじめに』として平野氏は、次のような緒言を書いている。

幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について
    平野三郎氏記  憲法調査会事務局 
 私が幣原先生から憲法についてお話を伺ったのは、昭和二十六年二月下旬である。同年三月十日、先生が急逝される旬日ほど前のことであった。場所は世田谷区岡本町の幣原邸であり、時間は二時間ぐらいであった。
 側近にあった私は、、常に謦咳にふれる機会はあったが、まとまったお話を承ったのは当日だけであり、当日は、私が戦争放棄条項や天皇の地位について日頃疑問に思っていた点を中心にお尋ねし、これについて幣原先生にお答え願ったのである。
 その内容については、その後まもなくメモを作成したのであるが、このメモにもあるように、幣原先生から口外しないようにいわれたのであるが、昨今の憲法制定の経緯に関する論議の状況にかんがみてあえて公開することにしたのである。 

 このメモは憲法調査会の事務局長であった西川哲四郎氏によって国会図書館に保管されており、今では誰でも閲覧することができる。『幣原先生から聴取した戦争放棄条項の生まれた事情について』
というものである。このサイトでも国会図書館に問い合わせて、コピーしたものを入手し、資料として添付している。

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