1月24日 幣原‐マッカーサー会談

 幣原が総司令部を訪ねたのは、昭和21年(1946年)1月24日正午のことだった。マッカーサーから提供を受けたペニシリンのおかげで肺炎から奇跡的に回復したその礼を述べたい、という申し入れたのだった。英語に堪能な幣原はいつも通訳を介さず、秘書官などを別室で待たせておいて二人きりでマッカーサーと話す。この日も、副官のホイットニーに案内されてマッカーサーの執務室に入った幣原は、ホイットニーが部屋から出ていくと、マッカーサーと二人きりで会談した。
 この間の二人の会談の様子は、後年、二人の書いた著作物からその内容を推し量ることができる。昭和21年1月24日の会談は幣原が肺炎から回復する病床で、考え抜いたことをマッカーサーにはじめて話す時である。いいかえれば日本国憲法が成立する最初の過程である。日本国憲法が成立した経緯については、これまでさまざまな立場からいろいろな言説があるが、ここでは幣原とマッカーサーの言動や、実際にその場にいた人の書いたものなどを中心に描いてみたい。
 マッカーサーと二人きりになると、幣原は、まずペニシリンの礼を述べた。
「おかげで肺炎から奇跡的に回復しました。ペニシリンを提供してくださった元帥には大変感謝します」
という意味のことをいったようだ。それから、幣原は何か考え事をするようにその場に立ちすくんでいた。
「何を気にしているのですか」
とマッカーサーがたずねた。
「それが苦情であれ、何かの提議であれ、首相として自分の意見を述べるのに少しも遠慮する必要はない」
とマッカーサーが言うと、幣原が
「あなたの軍人という職業のためにどうもそうしにくいです」
という。
「軍人だって時折いわれるほど勘がにぶくて頑固なのではなく、たいていは心底は人間なのです」
その言葉でようやく決心がついたように、幣原は言った。
「病床でつくづく考えたことで、元帥にお願いしたいことがあります。第一は天皇制の存続です」
そう言って、幣原は日本の国体や天皇と国民の特殊な関係を述べ、
[日本はどうしても天皇制でなければ平和に治まらない」
と説いた。マッカーサーは直ちに同意した。
「もちろん、イエスです。そのための努力を約束します」
 天皇制については、オーストラリアとニュージーランドは天皇を含む戦争犯罪人名簿を提出していた。また、12月27日にモスクワで開かれたアメリカ、イギリス、ソ連の三国外相会議で、占領政策決定機関として強力な権限をもつ極東委員会が2月26日から活動を開始することが決定されていた。この極東委員会が発足すれば、ソ連にも拒否権が与えられており、これまでマッカーサーに与えられていた大きな権限が制限されることになり、天皇制についても議論の対象となるかもしれない。天皇との会見でたいへん天皇に好印象を抱いたマッカーサーとしても天皇制の存続を維持したいという意向も持っていたが、その処理を巡って大変困った立場にあった。すなわち、ニュージーランドやオーストラリアは、ソ連と同調して天皇を戦争犯罪人として裁判にかけよと主張しているのであえる。両国は、戦時中、天皇の名の下に、日本軍から、手ひどい仕打ちを受けていたからである。幣原は、続けて言った。
「それから、新憲法を書きあげる際にいわゆる『戦争放棄』条項を含め、その条項では同時に日本は軍事機構は一切持たないことをきめたいのです」
「・・・・・」
「そうすれば、旧軍部がいつの日かふたたび権力をにぎるような手段を未然に打ち消すことになり、また日本にはふたたび戦争を起こす意志は絶対にないことを世界に納得させるという、二重の目的が達せられます」
「・・・・」
「原子爆弾が投下された今、第3次世界大戦が起これば、再び核兵器を使うかもしれません。そのような国際状況の中で一切の軍備をもたないと宣言することはあるいは狂気の沙汰でしょう。しかし、世界は一人の狂人を必要としている。日本は貧しい国で軍備に金を注ぎ込むような余裕はもともとないのだから、日本に残されている資源は何によらずあげて経済再建に充てるべきです」
 マッカーサーはためらっていた。彼が躊躇した大きな理由はアメリカの戦略に対する将来の考慮と、共産主義者に対する影響の2点であった。それについて幣原は言った。
「日米親善は必ずしも軍事一体化ではありません。日本がアメリカの尖兵になることが果たしてアメリカのためでしょうか。原子爆弾はやがて他国にも波及するでしょう。次の戦争は想像に絶します。世界は滅びるかもしれません。世界が亡びればアメリカも滅びます。問題は今やアメリカでもロシアでも日本でもない。問題は世界です。いかにして世界の運命を切り開くかです。日本がアメリカと全く同じものになったらだれが世界の運命を切り開くのでしょうか。好むと好まざるにかかわらず、世界は一つに向かって進む外はありません。来るべき戦争の終着駅は破滅的悲劇でしかないからです。その悲劇を救う唯一の手段は軍縮であるが、ほとんど不可能とも言うべき軍縮を可能にする突破口は自発的戦争放棄国の出現を期待する以外ないでしょう。同時にそのような戦争放棄国の出現もまたほとんど空想に近いのですが、幸か不幸か、日本は今その役割を果たしうる位置にあります。歴史の偶然は、たまたま日本に世界史的任務を受け持つ機会を与えたのです。貴下さえ賛成するなら、現段階における日本の戦争放棄は、対外的にも対内的にも承認される可能性があります。歴史の偶然を今こそ利用するときです。そして日本をして自主的に行動させることが世界を救い、したがってアメリカをも救う唯一の道ではないでしょうか。
 また日本の戦争放棄が共産主義者に有利な口実を与えるという危険は実際ありえます。しかしより大きな危険から遠ざかる方が大切でしょう。世界はここ当分資本主義と共産主義の宿敵の対立は続くでしょうが、イデオロギーは絶対的に不動のものではありません。それを不動のものと考えることが世界を混乱させるのです。未来を約束するものは、絶えず新しい思想に向かって創造発展していく道だけです。共産主義者は今のところはまだマルクスとレーニンの主義を絶対的真理であるかのごとく考えていますが、そのような論理や予言はやがて歴史のかなたに埋没してしまうでしょう。現にアメリカの資本主義が共産主義者の理論的攻撃にもかかわらず、いささかの動揺も示さないのは、資本主義がそうした理論に先行して自らを創造発展せしめたからです。それと同様に共産主義のイデオロギーもいずれ全く変貌してしまうでしょう。何れにせよ、本当の敵はロシアでも共産主義でもありません。このことはやがてロシア人も気づくでしょう。彼らの敵もアメリカではなく資本主義でもないのです。世界の共通の敵は戦争それ自体です」
 幣原はこのようなことを一語一語、言い含めるように述べた。これに対して、マッカーサーはどうであったろうか。ダグラス・マッカーサー著津島一夫訳『マッカーサー大戦回顧録』(中央公論新社2003年)によると、彼は幣原の説明を大変な感動をもって聞いていたのだった。すなわち、

私は腰が抜けるほどおどろいた。長い年月の経験で、私は人を驚かせたり、異常に興奮させたりする事柄にはほとんど不感症になっていたが、この時ばかりは息も止まらんばかりだった。戦争を国際間の紛争解決には時代遅れの手段として廃止することは、私が長年熱情を傾けてきた夢だった。
 現在生きている人で、、私ほど戦争と、それが引き起こす破壊を経験した者はおそらくほかにあるまい。・・・・私はは世界じゅうのほとんどあらゆる国の兵士と、時にはいっしょに、時には向かい合って戦った経験をもち、原子爆弾の完成で、私の戦争を嫌悪する気持ちは当然のことながら、最高度に高まっていた。

 この点について、幣原側からの資料も残されている。幣原は、親友の大平駒槌(大阪中学校、京都第三高等学校、東大を通じての同級生)にマッカーサーとの会談の様子を次のように語ったという。
「続いてあれこれ話をはじめ、かねて考えていた世界中が戦力をもたないという理想論をはじめ、戦争を世界がしなくなるようには戦争を放棄する以外にないと考える」
と話しだした。
『中途半端な、役にも立たない軍備を持つよりも、むしろ積極的に軍備を全廃し、戦争を放棄してしまうのが、一番確実な方法だと思う。そうすれば、旧軍部がいつの日か再び権力を握るような手段を未然に打ち消すことになり、又日本は再び戦争を起こす意思は絶対無いことを世界に納得させるという、ニ重の目的が達せられる。世界の信用をなくした日本にとって、二度と戦争は起こさないということをハッキリと世界に声明することが、ただそれだけが敗戦国日本の信用を勝ち得る唯一の堂々の道ではなかろうか』
と話した。そのとき、マッカーサーは急に立ち上がって両手で幣原の手を握り、涙をいっぱいためて、その通りだ、といったので幣原はちょっとびっくりしたらしい」
 二人は、それから、戦争放棄条項のこと、天皇制の存続のことなど、二時間あまり話し尽くしたようだ。天皇制の存続についても、オーストラリアやニュージーランドは、日本の再軍備化を警戒しているのであって、天皇制そのものには反対していなかった。日本が軍備を廃止し戦争を放棄するとすれば、天皇制には反対しないであろうから、ソ連と同調することもないと思われた。
 最後に幣原は、マッカーサーの事務所を出るときには感極まるといった風情で、顔を涙でくしゃくしゃにしながら、マッカーサーの方を向いて
「世界は私たちを非現実的な夢想家と笑いあざけるかもしれない。しかし、百年後には私たちは預言者と呼ばれますよ」
と言ったという。
 幣原が辞去した後、すぐにホイットニーがマッカーサーの執務室に入っている。幣原と会談する前と後では、マッカーサーの表情が明らかに違っていて、彼はやや興奮したようにホイットニーに話した、という。その部分をコートニー・ホイットニーの著作(『コートニ―ホイットニ―伝 日本におけるマッカーサー‐彼は我々に何を残したか』毎日新聞社 昭和32年刊)から引用してみる。

 幣原首相はペニシリン治療のお礼をいった後、今度新憲法が寄贈されるときには、戦争を軍事施設を永久に放棄する条項を含むように提案した、という。幣原首相は、この手段によって、日本は軍国主義と警察テロの再出現を防ぎ、同時に自由世界の最も懐疑的な人々に対して、日本は将来、平和主義の道を追求しようと意図している という有力な証拠を示すことができると述べた。さらに幣原首相は、日本はすべての海外資産を失ったのであるから、もし軍事費の重圧から解放されさえすれば、膨張する人口の最低限度を満たす、機会をどうにか持つことができることを指摘した。 

 幣原、マッカーサー、ホイットニーの平仄が見事に一致している。翌1月25日、マッカーサーはワシントンへ、長文の電信を送り、立憲君主として行動した天皇を戦犯とすべき理由はあらゆる証拠を照らしてもない、と断じた。そして、天皇を戦犯とした場合の占領政策への政治的影響を強烈な表現で語った。そして最後に
「天皇制への保証を得てポツダム宣言を受諾したと信じている日本人は、われわれが天皇に手を下せば、それをだまし討ちと受け止め、協力的な日本人がもう一度命知らずな戦士に回帰し、いつまでも反乱とゲリラ戦が続くであろう。百万の軍隊と数十万の民政官を送ってくれるのでなければ、天皇を戦犯とする決定をしてはならない」
と激しい口調でワシントンに、天皇制の存続を求めたのだった。
 マッカーサーが考えなければならなかったことは、憲法改正に関して日本政府に総司令部がどのように関与できるかという問題であった。彼らは幣原内閣の下で松本国務相を委員長として作成されている憲法改正案が、およそGHQが受け容れられない案であることはある程度予想できていたと推測されるが、日本側の作業に口を差し挟もうとはしなかった。その理由の一つは、1月11日にワシントンの統合参謀本部からもたらされた指令
「日本の統治体制の改革」(STATE-WAR-NAVY COORDINATING COMMITTEE DECISION AMENDING SWNCC 228: "REFORM OF THE JAPANESE GOVERNMENTAL SYSTEM)
に次のような項目があったからである。

5. Only as a last resort should the Supreme Commander order the Japanese Government to effect the above listed reforms, as the knowledge that they had been imposed by the Allies would materially reduce the possibility of their acceptance and support by the Japanese people for the future.
『最高司令官が、先に列挙した諸改革の実施を日本政府に命令するのは、最後の手段としての場合に限られなければならない。というのは、諸改革が連合国によって強要されたものであることを日本国民が知れば、日本国民が将来ともそれを受け容れ、支持する可能性は著しく薄れるであろうからである』
 憲法改正権限は2月26日に発足する極東委員会が掌握することになっている。そこで、マッカーサーは、連合国総司令官の憲法改正権限について法理的分析を民政局に対して命令していた。
 2月1日にケーディス次長らは、
「極東委員会が活動を開始すれば最高司令官はその決定に服さねばならないが、それ以前であれば憲法改正についてほぼ完全な権限をもつ」
と答申した。
 2月1日は毎日新聞が、政府が検討している憲法草案をスクープした日でもあった。それは最終的な松本案ではなく、その途上で生まれたよりリベラルな一案にすぎないことが今日では明らかであるが、新聞記事をみた総司令部では、即日英訳し、分析した。民政局は毎日新聞に掲載された松本憲法案が
「明治憲法の手直しにすぎず、あまりにも保守的で、これを受理して修正を加える応酬はおびただしい時間を浪費することになる」
と決めつけた。
ホイットニーはその夜、マッカーサーに
「日本政府に対して、われわれの考える新憲法案はこうだ、というモデルプランを出すべきである」
という上申書を出した。それは直ちに認められ、新憲法のモデルプランが作成されることになった。

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