日本国憲法 審議

 3月20日幣原は、新憲法の施行について、枢密院に諮った。枢密院とは、1888年(明治21年)に憲法草案審議を行うため、枢密院官制に基づいて創設された天皇の最高諮問機関である。議長1名、副議長1名、顧問官24名〜28名書記官長1名、書記官3名で組織した。顧問官の任用資格は40歳以上の元勲練達の者を選ぶとされていた。国務各大臣は顧問官として議席を有し、評決に加わった。(枢密院は、日本国憲法施行により1947年に廃止された。参考文献「Wikipedia」)
 幣原は、枢密院で、新憲法では、天皇制は存続することを述べ、そして戦争放棄条項については、ときには涙を交え、あふれ出る感情を抑えきれずに感極まるといった口調で次のように語ったという。(原文は漢字、カタカナで書かれた文であったが、ここではカタカナをひらがなに改めた文で記した)

 第九条は、どこの憲法にも類例はないと思う。日本が戦争を放棄して他国もこれについてくるか否かについては私は今日ただちにそうなるとは思わないが、戦争放棄は正義に基づく正しい道であって、日本は今日この大旗をかかげて国際社会の原野をとぼとぼと歩いていく。これにつきしたがう国があるなしにかかわらず正しいことであるからあえてこれを行うのである。
 原子爆弾の発明は、世の主戦論者の反省を促したが、今後、さらに数十倍、数百倍する破壊力ある武器が発明されるであろう。今日のところ、残念ながら世界はなお旧態依然たる武力政策を踏襲しているが、将来新たなる武器の威力により短時間のうちに交戦国大小都市ことごとく灰燼に帰するの惨状をみるにいたれば、その時列国は初めて目覚め、戦争の放棄をしみじみと考えるに違いないと思う。
 そのころは私はすでに命数を終って墓場の中に眠っているであろうが、その時、私は墓場の蔭から後をふりかえって列国がこの大道につきしたがってくる姿を眺めて喜びとしたい。 

 幣原の説明を受けて、枢密院では、新憲法草案を満場一致で賛成した。第22回衆議院議員総選挙が4月10日に執行され、その結果は、日本自由党(総裁 鳩山一郎)が140名で第一党となり、続いて進歩党(代表 斎藤隆夫)、社会党92名(中央執行委員長 片山哲)、協同党14名、共産党5名、無所属81名、諸会派38名というものであった。
 4月16日には、憲法草案の改正案が正式に発表された。このなかで、戦争放棄条項は次のように記されていた。

第二章 戦争の抛棄
  第九条 国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては、永久にこれを抛棄する。
  陸海空軍その他の戦力の保持は、許されない。国の交戦権は、認められない。 

 選挙後、自由党の総裁であった鳩山は首相指名を待つばかりであったが、5月3日総司令部から、
「戦前ナチスをたたえ、太平洋戦争に賛成の言論を唱えていた」
として鳩山に公職追放の命が下りたため、鳩山は自由党を吉田に託して、下野する。次期首相をめぐって、国会は空転したが、幣原は進歩党の総裁に、吉田は鳩山追放の後を受けて自由党の総務会長〈のちに総裁)に推されたされたので、吉田と幣原の話し合いで自由進歩党の連立内閣を組織して時局を収拾することになり、5月22日吉田を首班とする新内閣が成立した。幣原は無任所の国務大臣として入閣する。 6月20日、第90回帝国議会が開催され、帝国憲法改正案は、衆議院に提出された。
 憲法改正案の中で、いくつかの修正が加えられた。第一の修正は、主権在民という文言の挿入であった。
 政府が国会に提出した草案では、「国民の総意が至高なものであることを宣言し・・」といった書き方で、「主権在民」の記述が曖昧であった。これは政府関係者の一部のなかに「国体の護持」にこだわり、主権の存在を曖昧なままにしておこうという狙いがあったためである。これに対して、極東委員会等からの国際的圧力がくわえられ、GHQ民生局のケーディス次長も日本政府に対し、「主権在民」の明確化を再三再四要求した。この結果、現憲法の前文と第一条に「主権在民」を明示する修正が行われたのである。
 戦争放棄条項については、6月26日に吉田首相は、
「本条の規定は、直接には自衛権を否定してはおりませぬが、第九条第二項において、一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したものであります」
とのべ、さらに6月28日にも、共産党の外国が攻めてきたとき、正当防衛のための軍隊は必要ではないかという質問に対して、


  チャールズ・L・
     ケーディス
1906年3月12日-
  1996年
6月18日

「国家正当防衛による戦争は正当なりとせらるるようであるが、私はかくの如きを認むることが有害であると思うのであります。近年の戦争は、多くは国家防衛の名において行われたことは顕著なる事実であります。如に正当防衛を認むることが戦争を誘発する所以であると思うのであります。正当防衛権を認むることそれ自身が有害であると思うのであります」
と述べている。吉田は幣原とともに、自衛のための軍隊をも持たないという条項を入れるという答弁を繰り返していた。

 衆議院では、憲法改正特別委員会を6月25日に設置し、委員長に芦田均を互選で選出した。このあと、共同修正案作成のため、芦田氏を委員長とする小委員会を設置している。小委員会では数回の会合をもって戦争放棄条項について協議していたが、あるとき芦田は一人で、総司令部に相談しにいく。

 当時の民政局の次長であったチャールズ・L・ケーディス氏は、『日本国憲法を生んだ密室の九日間』のなかで著者である鈴木昭典氏のインタビューに答えて次のように答えている。


「たしか7月の終わりごろだったと思います。芦田氏が一人で、戦争放棄条項を修正したいと相談に来ました。そのとき芦田氏は、
 




芦田均 あしだ・ひとし
 1887年11月15日-    1959年6月20日
(日本国民は、正義の秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し・・・)
という文章のあとに
〈前項の目的を達成するため〉
という文章を入れたいと言いました。
 文章は固く、なんとなく曖昧な感じがしましたが、その意味するところはわかりました。マッカーサー・ノートの戦争放棄条項をカットしたところでも話しましたが、個人にも人権があるように、国家にも自分を守る権利は本質的にあると思います。そこで、私は、私の責任でOKを出しました。すると芦田氏は、
「マッカーサーと相談しなくてもいいのですか」
と聞きました。私は
「全く問題ない」
と返事しました。これは別の人から聞いた話ですが、このやり取りを聞いていたハッシーとピークが、ホイットニー将軍のところへ確認に行きました。私は不愉快だったので一緒にはいきませんでしたがね。彼らは、将軍に
「この修正は、日本が自衛の軍隊(ディフェンス・フォース)をもつことになると思うが、どう思われますか」
と尋ねたんですね。するとホイットニー将軍は、
「それがどうした?君はよい考えだと思わないかね!」
と答えたというんですね」 

 この文章を読むと、戦勝国アメリカの総司令部のホイットニーやケーディスにとって戦争放棄条項は、到底理解しがたいものであったろうことは容易に推測できる。なぜなら多くのアメリカ人にとって平和とは、戦って勝ち取ってきたものであるからである。独立戦争、南北戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦など、アメリカ合衆国の建国以後の近代史を見るだけでもそのことは言える。
 一方、日本は江戸期の二百数十年の鎖国を開いて、西欧の近代文明を受け入れた。そうして1894年の日清戦争、1904年の日露戦争という10年ごとの戦争に勝利し、この二つの戦争からさらに10年後の1914年には、第一次世界大戦にも参加した。しかし第一次世界大戦は、戦線が主としてヨーロッパであったため、日本は実際の戦闘をほとんど経験しないままに終わった。このことは、日本の軍人、官僚などが机上の空論に近い理屈を構築することになり、結果として際限のない増長を招くことになった。1937年の満州事変から始まった日中戦争がしだいに泥沼化していくなかで、さらに1941年に至って太平洋戦争を突入する。真珠湾攻撃など開戦初期には華々しい戦果があったものの、しだいに戦局は悪化し、最終的には1945年8月にポツダム宣言を受け入れて無条件降伏に近い形で、戦争に負けた。新たな憲法に盛り込もうとしてた戦争放棄条項は、戦争をしない、そのための兵力、軍隊を持たないという、徹底的な非戦思想であった。ここまでに至るその思想の淵源は、病中に非戦思想を思いついた幣原にあるといっていいが、当時の多くの国民が持った感情からも同調できるものであった。
 その一方で、軍隊を持つべきであると考える人々もいたことも事実である。芦田均もその一人であるといっていいだろう。芦田は昭和三十年代に開かれた第一回憲法調査会において、次のように証言している。

「私は、第九条の二項が原案のままでは、わが国の防衛力を奪う結果になることを憂慮いたしたのであります。それかといってGHQが、どんな形をもってしても、戦力の保持を認めるという意向がないと判断しておりました。そして第二項の冒頭に「前項の目的を達成するため」という修正を提議しました際にも、あまり多くを述べなかったのであります。
 修正の字句はまことに明瞭を欠くものでありますが、しかし私は一つの含蓄をもってこの修正を提案いたしたのであります。「前項の目的を達成するため」という字句を挿入することによって、原案では無条件に戦力を保有しないとあったものが、一定の条件の下に武力を持たないということになります。日本は無条件に武力を捨てるのではないことは明白であります。〉(芦田均 憲法調査会資料〉 

 芦田としては、ホイットニーの総司令部の了承も得たと考え、8月1日、小委員会の第7回会合で、九条に関する「芦田修正」をまとめた。 
 (政府案) 国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては、永久にこれを放棄する。
       陸海空軍その他の戦力は、これを保持してはならない。国の交戦権は、これを認めない 
(委員会案) 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放       棄する。 
       前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。(現在の九条

 8月21日 国会では委員会案を共同修正案として、衆議院の委員会に提出し、可決された。さらに修正案は、8月24日、衆議院本会議に提出された。共産党、無所属2人の計8人が反対したものの、賛成多数で可決された。
  このようななか、幣原は8月27日、貴族院で戦争放棄条項についてつぎのような所信を述べている。

 「改正案の第九条は戦争の放棄を宣言し、我が国が世界中最も徹底的な平和運動の先頭に立って指導的役割を占めることを示すものである。今日の時勢になお国際関係を律する一つの原則として、ある範囲の武力制裁を合理化、合法化せんとするがごときは、過去における幾多の失敗を繰り返すゆえんであって、もはやわが国の学ぶべきところではない。
 文明と戦争とは結局両立しえないものである。
 文明が速やかに戦争を全滅しなければ、戦争がまず文明を全滅することになるであろう。私はかような信念をもってこの憲法改正案の議に与ったのである。」 

 幣原はその後、機会あるごとに「戦争放棄後の対策」として国民に呼びかけてその理解を求めたが、そのとき彼が各所において試みた演説の草稿が残されている。宇治田直義著『日本宰相列伝17 幣原喜重郎』 時事通信社 昭和33年5月1日発行)からその一部を引用する。

 「私はまず我が国民生活が目下の窮迫状態に陥った原因に遡って一言したいことがあります。我々は昭和6年の満州事変の発生以来、昭和20年太平洋戦争の終了 に至るまで、我が国が対外関係においてとってきった行動を、冷静に、客観的に顧みてみますならば、遺憾ながら正しい筋道を踏み誤った事実を認めざるをえませぬ。その行動が、たとえいずれの大国でも過去の歴史を穿鑿すればありがちの性質のものであったとしても、また国民の各自にはなんらの責任がなかったとしても、国家の構成分子たる個人は、国家機関の行動についてある程度の共同責任を免れうるものではない。我々は誤った国権の発動に連座して、精神的にも、物質的に も絶大な苦難につまづいているのが現状であります。しかし我々は今さらこれがために何人をも恨みませぬ。いずれの国にも反感を抱きませぬ。黙々として自ら省み、己を責め、いかにつらい試練でも堪え抜く決心を決めております。この自己反省のないところに不平や煩悶が起こるのであります。
 日本の前途はまことに多難でありますが、暗闇ではありませぬ。わが国当面の悩みは病気の兆しではなく、産前の陣痛であります。陣痛が始まると、健全な、元気溌剌たる新日本が生まれ出づることを信じます。長く平和の恵みと、文化の潤いに浴する国家がここに固い基礎を据えんとしているのであります。その新日本は厳粛な憲法の明文をもって戦争を放棄し、軍備を全廃したのでありますから、国家の財源と国民の能力を挙げて、平和産業の発達と科学文化の振興に振り向け得られる筋合いであります。したがって国費の重要な部分を軍備の用に充当する諸国に比すれば、我が国は平和活動の分野において、はるかに有利なる地位を占めることになりましょう。今後なお若干年間は、我が国民生活に欠乏と不安が続くものと覚悟しなければなりませんけれども、国家の生命は永遠無窮であります。人間万事は塞翁が馬であります。この理を悟ってみれば、当分の受難時期はたまたまわれわれ並びにわれらの子孫に尊い教訓を垂れるものとして、禍を福に転ずるの意気込みがここにわいてくるのであります。
  もし外国よりわが国の軍備が皆無なるに乗じ、得手勝手の口実を構えて日本領土を侵すことがあれば、我が国としてこれに処すべき自衛対策いかん。
   ・・・・・
  我々は他力本願主義によって国家の安全を求めるべきではない。わが国を他国の侵略より救う自衛施設は徹頭徹尾正義の力である。われわれが正義の大道をふんで邁進するならば『祈らぬとても神や守らむ』と確信するものであります。そのいわゆる正義の基準は主観的な独断ではなく、世界の客観的な公平な世論によって裏付けされたものでなければなりません。これは迂闊な遠路のように見えても、実は最も確かな近道であります。私はわが国の対外政策が終始これを基調として律せられんことを切望してやまぬものであります」  

 日本国憲法は、国会での審議、議論を経て確定し、昭和21年11月3日に公布され、昭和22年5月3日に施行された。
  
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