病床で考えたこと

 憲法問題調査委員会は、10月18日発足した。同月25日に官制によらない閣議了解の形で発足させ、委員長には松本烝治国務大臣が就任した。顧問に、美濃部達吉帝国学士院会員・元東大教授)、清水 澄枢密院副議長・帝国学士院会員)、野村淳治(元東大教授)ら3名が、委員には宮沢俊義(東大教授)清宮四郎(東北大教授)、河村又介(九大教授)、石黒武重(枢密院書記官長)、楢橋 渡(法制局長官)、入江俊郎(法制局第1部長)、佐藤達夫(法制局第2部長)ら7名が、さらに補助員として刑部 荘(東大教授)、佐藤 功(東大講師)の2人が就任した。
 委員のところには、各方面の日本人の忠告や意見が殺到し、憲法問題は、新聞紙上で大いに論議された。共産党を含む各政党は、それぞれ憲法改正草案の作成し、発表する。そんななか、憲法問題調査委員会は、数回の会合で、保守的憲法の唱道者と進歩的憲法の唱道者のとの間に明らかな意見の対立があり、委員会がなかなか進まなかった。結局のところ、全体的には、極端な保守主義者である松本国務大臣の意見に支配されていく。松本は、12月8日の国会で、衆議院予算委員会での中谷武世議員の質問に答え、憲法改正に関わる「松本四原則」として
  @天皇が統治権を総攬せらるの原則には変更なきこと
  A議会の権限を拡張し、所謂大権事項を制限すること、
  B国務大臣の輔弼の責任は国務全般に及び帝国議会に対して責を負うこと
  C臣民の権利自由を保護し、その侵害に対する国家の保障を強化すること
を公表した。結局昭和20年の暮れまでに前後7回の総会を開き、その間15回の小委員会を招集し、だいたいの腹案ができたとし、以後、松本は自ら新憲法草案を起草するため、昭和21年1月1日から、鎌倉の別荘に立てこもり、独自の視点で憲法案を書きあげていく。
 しかしながらその憲法素案は、たとえば「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」という条文を「天皇ハ至尊ニシテ侵スヘカラス」と書き換えるなど、これまでの大日本国憲法の字句を修正しただけのものが大半であった。1月1日に天皇が人間宣言によって天皇自ら、神格化を否定したばかりであるが、松本の改正案にはこのことを反映するようなことも明記されておらず、いわば大日本帝国憲法の焼き直しのような憲法案であった。そうして
「憲法問題調査委員会では草案がまとまった」
として、1月9日より同委員会ではさらに小委員会を開き逐条審議の上、26日に一切の審議を終えてただちに政府に報告している。
 幣原はマッカーサーが差し向けた医者のペニシリン治療によって快方に向かっていたが、依然として病床にあるため、代理首相として吉田を任命していた。年が明けた昭和21年(1946年)1月4日、GHQは2つの指令を幣原内閣に発した。「国家主義的・軍国主義的な諸団体の廃止」として以下のA〜G項の7項目に該当する「公職に適せざる者の追放」を指示したのである。
   A. 戦争犯罪人。
   B. 陸海軍の職業軍人。
   C. 超国家主義団体等の有力分子。
   D. 大政翼賛会等の政治団体の有力指導者。
   E. 海外の金融機関や開発組織の役員。
   F. 満州・台湾・朝鮮等の占領地の行政長官。
   G. その他の軍国主義者・超国家主義者。
 この中には、閣僚である堀切善次郎内相(前翼賛会総務)、前田多門文相(前翼賛会地方支部長)、松村謙三農相(前翼政会政務調査会長、日政幹事長)、田中運輸相(前日政代議士会長)、次田大三郎国務相兼書記官長(内務官僚 前翼政会総務)の5閣僚も含まれていた。これでは内閣が保てないと、幣原は、病床から、内閣総辞職の意向を閣議に伝えた。明治憲法では、総辞職の裁可は、天皇が行うことになっている。代理首相の吉田は、天皇に辞表を提出する前に、総司令部にいき、マッカーサーに会い、
「全閣僚が辞表を提出することになりました。」
と伝えた。吉田はさらに、幣原に組閣の命令が下されるように予定されている、とも説明した。この時のことは、マッカーサーの副官であったコートニー・ホイットニーの著作物(『日本におけるマッカーサー 彼はわれわれに何を残したか』(抄訳)毎日新聞社外信部訳・毎日新聞社 1957 )では次のように書かれている。

マッカーサーは吉田の説明を静かに聞いていたが、やがて、外相に冷たいまなざしを投げて、
 「吉田外相、私は幣原男爵に最高の敬意を払ってますし、また幣原男爵ほど私の指令の条件を履行する資格をもった人を、他には知らないのですが、しかし、もし内閣があす総辞職をすれば、日本国民は幣原内閣が、私の指令を履行できないのだと解釈するだけでしょう。そうなると幣原男爵を再任命することは、天皇には承諾できるかもしれないが、私には承諾できません」
と述べた。
 その一瞬、冷たい沈黙が続いた。吉田首相は立ち上がって、
「最高司令官のメッセージを幣原男爵に伝えます」
といってていねいに頭を下げた。私は吉田首相と一緒に、マッカーサーのオフィースを出て、吉田外相をエレベーターまで見送った。吉田氏は英語を完全に理解する人であるが、私は会話のつもりで、
「最高司令官のいったことはおわかりでしょうね、吉田外相?」
とたずねた。
エレベーターのドアが開くや、彼は意味ありげに私を見て、
「よくわかっていますよ、よくわかっていますよ」
といった。



















 
 マッカーサーは総司令部が下した指令に対し、いわば総辞職という一種の反発で応えようとする幣原内閣の態度を認めなかったのであった。結局内閣は総辞職せず、改造で乗り切ることとなり、1月13日夜、内相兼運輸相に三土忠造、文相に安倍能成、農相に副島千八を任命する親任式が行われ、また内閣書記官長には法制局長官の楢橋渡が横すべりし、法制局長官には枢密院書記官長の石黒武重が起用されることとなった。 
 幣原の病状はしだいに快方に向かっていた。病状が回復してきた幣原が考えていたことは、憲法改正についてであった。
 14年前、幣原が、外務大臣であった時、関東軍の昭和6年 柳条溝(りゅうじょうこう)の鉄道爆破事件を契機に 満州事変 が始まった。政府は、不拡大方針で事態の収拾に努めたが、関東軍の暴走は収まらず、結局、責任をとる形で、民政党 若槻礼次郎(わかつきれいじろう)内閣が退陣し、幣原も辞任した。以後、国家は、統帥権の名のもとに、軍が三権から独立した機関となり、三権の長は軍がなすことを追認するだけの存在になり果ててしまう。そうして、日中戦争、太平洋戦争と戦争への道を突き進んで泥沼化し、最終的には、アメリカを中心とする連合諸国の圧倒的な物量の攻撃に敗れて、戦争に負けてしまった。
 幣原は、今後、二度と戦争が起こらないような保証を新憲法で確立したい、と決心していた。ではどのようにして、その保証を実現するのか。幣原の思索について、彼の秘書官であった平野三郎氏が記した文書(平野三郎 ー制憲の真実と思想― 幣原首相と憲法第九条 『世界』220  昭和394月発行)が残されている。その文書を参考にしながら、幣原が病床で思索したことについて考証してみたい。
 幣原は、さまざまな憲法改正案が出ていたので全部目を通してみた、という。しかし、
「自由党案は天皇制護持に熱心なだけであり、進歩党は宣戦および講和の大権は議会の協賛を要することにしていたが、それは統帥権をやめるということにすぎす、社会党の案も似たりよったりであった。共産党は、『日本人民共和国は侵略戦争を支持せず、また参加しない』という文句を掲げていたが、自ら侵略戦争と称する戦争が行われたことがないから、ナンセンスであり、結局戦争をなくしようとするものはどこにもなかった」
という。 
 幣原は、戦争と平和について考えていく。
 すなわち、人間は、悪魔と天使のように、戦争と平和を同時に求め、そのいずれも離れて生きることができなかった、と幣原は思う。古来からの学説をみると、クラウゼヴィッツは戦争の原因は政治であるという。マルクスは階級闘争が資本主義の世界では帝国主義となり、それが戦争に発展すると考えたが、実際にはこんどの戦争は、資本主義と社会主義の同盟軍でやったのであるから、この説は容認できないと思えた。
 
ダーウィンは生存競争は生物界の普遍現象であり、それが生物進化の生物学的法則であるといった。だから戦争と平和とは、兄弟がお互いに助け合ったり競争しあったりするように、生存競争と相互扶助の関係にあるのではないかと考えた。もしそうなら、戦争はどうにもならないことだと、幣原は一時絶望に陥ったという。
 しかし、幣原は、もう一歩突き進んで考えてみた。  
 ―限りなく進化が発展しつくした後はどうなるのか。―
 進化の果てにほろんだ恐竜、角を発達させすぎたために自らの行動を失うにいたったある種の鹿、首の伸びすぎたキリン、人間に保護される馬、繁殖の頂点に達しついには海に飛び込んでしまうレミングス(スカンジナビア半島にいるネズミの一種)などのような自らの進化が滅びに至る現象が人間にも当てはまるとしたら、人間もやがて滅びる、という理屈となる。人間は地球の覇者となったが、人間同士の闘争に明け暮れ、ついには人間は原子爆弾に到達した。人間は自分の造り出した機械で自分を滅ぼそうとしている。
「これは大変なことである。そんなことがあってはならない。」 
と幣原は思い、科学についてもう一度考えてみた。そうすると科学はものを作るものであって人間を指導できないものであり、人間を指導するものがあるとしたら、それは哲学であり、つまり人間を最後に救い出すものは哲学、という結論に幣原は達する。幣原は、哲学によって人間は進化論という科学から抜け出せる、と思ったという。
―しかし、その可能性は絶対といえるだろうか。つまり人間が歴史を作ることができるだろうかー
 幣原はまた新しい疑問を前にした。
 幣原は、今度の戦争でも防ぐことができなかった、英米と戦うことは無理だとわかっていても、必勝という信念があり、一度負けてみなければ日本人には結局わからなかったのではないか、という気がしたという。
 そうなると歴史というものはいったい何者だろうか、と幣原は改めて考え始めた。唯物的弁証法にしても観念論にしてもそれぞれ限界があり(詳しくは原文参照)結局、人間のみが歴史を構成しうる力をもっている存在である、戦争の歴史も平和の歴史も人間によってどのようにも書きかえることができる、人間は自分の歴史を書く権利をもっているのである、という結論に幣原は達する。
 究極兵器の登場によって人間は戦争進化の頂点に達した。この分水嶺で人間が右に行くか左に行くか、その選び方で人間の運命はきまる。戦争への道を行けば人間の歴史は閉じ、平和の道を行くならば、人間には新しい黄金の歴史が開かれる。今、二十世紀の人間は本当の意味での人間開花の前夜を生きている、と幣原と幣原は述べている。この意味で―人間は戦争を通じてのみ偉大となるーといったムッソリーニは勘違いしており、殺人を目的としない平和的競争こそ、最も人間的な人間競争であり、こうした平和的生存競争の世界が創造されたときに初めて人間の花が咲く、と幣原は勇気がわいてくると感じたという。
 幣原はさらに、具体的に戦争をなくすにはどうしたらいいか、ということに思索をすすめた。武力をもたないことがいちばん確実な保証であるが、それは一種の理想であって、人間同士の争いには最後は腕づくで解決するほかないので、武力はどうしても必要になる。しかしその武力は一個に統一されなければならない、と幣原は思う。その一つとして、第一次大戦後の国際連盟に代わる何らかの国際機関が第二次大戦後に生まれるであろうから、その機関が国際的に管理された武力を所有して世界警察としての行為を行う状態、これが戦争なき世界を可能にする唯一の姿と考えられる、と幣原は述べている。
 この目的を達するためには軍縮を進めなければならないが、第一次大戦後、軍縮を目的とするワシントン会議(1921年 主力艦などの制限を決めたワシントン海軍軍縮条約を締結)などで、日本の全権大使として交渉を行い、軍縮をもって経験してきた幣原にとって、容易なことではない、と思われた。自衛のためには力が必要で、相手のもつものは自分も持たなければならない。その結果がどうなるかは、分からない。責任はすべて相手方にある。そういった果てしない堂々巡りとなり、要するに軍縮は不可能である。ただもし軍縮を可能にする方法があるとすれば一つだけ道がある。それは世界がいっせいに一切の軍備を廃止することである。もちろんこんなことは不可能であるに違いない。
 そのとき幣原の脳裏ににわかに思い浮かんだことがあった。

ー誰かが自発的に武器を捨てるとしたらー このことに考えがおよんだ時、幣原は次の瞬間思い直した。
『俺は何を考えようとしているのだ。相手はピストルをもっている。その前に裸の体をさらそうという。何とばかげたことだ。恐ろしいことだ。もしこんなことを人前でいったら、幣原は気が狂ったといわれるだろう。確かに狂気の沙汰である」
しかし、幣原の脳裏に通り過ぎたひらめきは回転をやめなかった。彼の頭の中をさまざまな追憶が一つの映像となって駆け巡った。その映像の中からある叫び声が聞こえた。
 ―お前は何のために生きてきたのだ。お前は何のために戦争に反対したのだ。お前が命をかけて平和を守ろうとしたのは何のためだったのだ。今だ。今こそ平和だ。今こそ平和のために戦う秋ではないか。そのために生きてきたのではないか。そしてお前は今平和の鍵を握っているのではないか。今こそしっかりする秋だぞ―

 武装宣言―それは確かに狂気の沙汰である。だが狂気の沙汰ではない正気の沙汰とは何であろう。−世界は今、ひとりの狂人を必要としている。何人(なにびと)かが自ら買って出て狂人とならない限り、世界は軍拡競争のアリ地獄から脱出できないのである。・・・その歴史的使命を日本が果たすのである。
 この考えに達したのでようやく幣原はマッカーサーと会う決心ができた、という。
 幣原は肺炎から回復し、総理大臣の職務に戻れるまでになっていた。昭和21年(1945年)1月24日の数日前、と推測される。

         トップページに戻る

 

 

 



inserted by FC2 system