南風原町 黄金森(こがねもり)公園内 9条の碑南風原町の憲法9条の碑は、比較的新しく、2007年5月3日に建てられたものである。表側には、憲法9条の碑と題して、日本国憲法の条文が書かれてあり、中国語と韓国語と英語にそれぞれ訳された憲法第九条が書かれ、さらに日本語で次のような碑文が書かれていた。      
   「日本国憲法第九条は人類の進むべき道しるべ。二十一世紀こそ人類は残虐非道な戦争から解放され、すべての人々が平和に暮らせる世界が実現できるもの、と信じている。さる沖縄戦で住民の約43%が犠牲となり、戦争の語り部、陸軍病院壕跡が存するここ黄金森に平和を願う町民の名において、「憲法9条の碑」と「鎮魂と平和の碑」を建立する。                  2007年5月3日  
                   憲法九条を世界に広め
                     平和を守る南風原町民の会」(原文は縦書き)
 黄金森は、太平洋戦争の末期、陸軍病院が設置されたところである。沖縄では、昭和19年10月10日の空襲などで那覇市内の95%が灰燼に帰したため、黄金森に縦穴を掘って沖縄陸軍病院としたのだった。ここに沖縄県立第一高等女学校と沖縄師範女子部の引率教師18名、両校の女子生徒222人で成り立つ学徒たちが招集されて、看護要員として働くことになった。アメリカ軍の上陸を目前に控えた1945年(昭和20年)3月23日深夜のことである。生徒達は、ただ祖国の勝利を信じて、砲煙弾雨の中、負傷兵の看護や医療器具・薬品、食料や水の運搬などに献身的に協力した。5月25日、日本軍は南部に敗走し、南風原陸軍病院や各地の野戦病院も南部へ撤退した。すでに壊滅状態になっていた日本軍は、6月18日、喜屋武半島の戦場の真っただ中で、学徒隊に解散命令を下す。6月19日には、第三外科壕にガス弾が打ち込まれた。生き残った学徒は行き場を無くし、6月21日荒崎海岸で、多くの生徒が自決し亡くなった。学徒・職員あわせて219名の尊い命が失われた。
  戦時中、病院として使われた第20壕の洞窟のそばに憲法第九条の碑が建てられている。第20壕は、今は一般公開されて、中に入って見学できるようになっている。入口の近くでは、ひとところに病院の薬品が入っていたビンなどを集めていた。病院を捨てて南に逃げていくとき、埋められたものであるという。奥には、木製の二段ベットが並んでいた。電気の設備もなく、真っ暗である。
「暗い中でも目が慣れてくると、ある程度のこともできるようになったようです。」と案内の人が説明してくれた。傷病者たち、あるいはひめゆり部隊の少女たちは真っ暗な中で、生きようとしたのだろうか。麻酔が切れると、麻酔なしで足や腕を切断する手術も行われ、激痛に苦悶の叫び声を上げる病者もいたようだ。 南風原町では、第二十壕跡から車で5分ほどのところに、平和祈念資料館を併設し、沖縄戦の惨状などを今に伝えようとしている。その入り口にアメリカ軍が銃や飛行機で、住民を殺害しようとしている図などを含むタイル画が描かれていたのが目に焼きついた。
 中では、戦時下の沖縄で、軍人、民間人も戦争に駆り出され、戦った様子が展示されていた。 その中の展示物の一つに、
「唐ぬ世から 大和ぬ世 大和ぬ世から アメリカ世ひるまさ 変わたる  くぬ沖縄」
と掲げられた大きな文言があった。「中国の世から 大和の世、大和の世から アメリカの世 だんだん変っていく この沖縄」という意味で、沖縄の歌の一部だそうだ。中国に支配され、日本に支配され、そしてアメリカの基地が存在する沖縄の現状を、事実だけをうたっているが、その奥にはそこはかとない悲しみがあふれているようである。  
 
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