敗戦の日

 日本は、連合諸国が発した『ポツダム宣言』を受け入れて無条件降伏した。 そのことを国民が知らされたのは、昭和20年(1945年)8月15日正午から始まった天皇による玉音放送によってである。
 この日に至るまで日本の軍部は迷走をくりかえしていた。1945年12月8日に、日本はハワイの真珠湾の海軍基地を奇襲攻撃し、アメリカをはじめとする連合諸国に宣戦布告をした。当初先制攻撃によって、真珠湾に集結していたアメリカ海軍の太平洋艦隊に大きな損傷を与え、日本側は勝利した。しかし物量に勝るアメリカ軍に、半年後のミッドウエー海戦で、早くも敗北を喫する。以後、日本は連戦連敗といっていいほどの惨憺たる状況となり、軍艦、飛行機などはほとんど破壊され、戦うべき武器弾薬も乏しくなっていた。1945年の敗戦間際になっても軍部は戦争継続、本土決戦を主張しつづけていた。
 その日まで、日本の新聞、ラジオなどのマスメディアは、陸軍参謀本部、海軍統帥部の発表するほとんど虚仮に近い戦勝記事しか伝えることしかできない媒体になり果てており、8月6日、9日の広島、長崎への原爆投下でさえ、軍の発表する過小な被害報告の記事しか書けなくなっていた。

  幣原喜重郎は,明治五年大阪の門真一番下村で生まれた。東京帝大の法学科を卒業後、外交官試験に合格し、外務官僚となった人物である。外務次官まで勤め上げ、さらに大正から昭和にかけて、あしかけ5年間、外務大臣を歴任した。彼は特に中国に対して、内政不干渉、経済的接近といういわゆる幣原外交」といわれる一時代をつくりあげたが、昭和6年、大陸における関東軍の暴走行為をめぐって陸軍と厳しく対立し、最後は満州事変の処理を巡って、ときの若槻礼次郎内閣が閣内不一致で総辞職したため、彼も辞任した。以後、日本が日中戦争、太平洋戦争などの戦争へと突き進んでいく時代の中にあって、貴族院議員となってはいたものの、政界の中心から外れ、隠居同然の日々を過ごしていた。
 そうして、14年が過ぎた。
 昭和20年8月15日、幣原は、72歳になっていた。この日も幣原は朝から、有楽町の『日本倶楽部』にきていた。『日本倶楽部』は、政財界を引退した人々が自分の時間を過ごすために作られた施設である。岡本町にあった幣原の自宅は、5月の第三次東京大空襲で焼失し、幣原一家は、世田谷区の東急電鉄の二子玉川駅の近くにある静嘉堂文庫という三菱財閥の管理する建物(幣原の妻、雅子は、三菱財閥の縁故の者であった)に一時避難生活をしていた。ほとんど着のみ着のままで焼け出されて来たためだったからであろうか、身辺には読む物がほとんどなくなっていたようだ。読書好きの幣原は、週に何度かは二子玉川駅から、電車に乗って有楽町の日本倶楽部にきて読書などをすることが日課のようになっていた。この日も朝から倶楽部で読書にふけっていると、事務員が、
「今日正午に陛下の玉音放送があります」
と伝えまわりはじめた。
「何の放送ですか」
と幣原がきくと、
「それはわかりませんが、とにかくそういう予定だそうです。二階の図書室にあるラジオの前にご参集ください」
という。幣原はともかく二階の図書室に行った。幣原の著書『外交五十年』(中公文庫 1987年1月)には、次のように記述されている。

 二階の図書室に備え付けの受信機の側に行くと、もうたくさんのひとが集まっている.時報が終わると、放送局のアナウンサーはこれより玉音の放送ですと告げた。一同は期せずして起立した。
 この放送で、無条件降伏ということが判って、みな色を失った。放送が済んでも、黙って立っていて、一言も発する者がない。隅の方に女の事務員が3,4人立っていたが、それがわあっと泣き出した。それで沈黙が破られ、みなハンケチを取り出して涙を拭いた。それは実に一生忘れられない、深い深い感動であった。
 

  


   幣原はもう倶楽部にいる気もせず、家に帰ろうと電車に乗る。そうしてその電車の中で、幣原は再び非常な感激の場面にであう。
  幣原の著書から引用を続ける。

  乗客の中に、三十代ぐらいの元気のいい男がいて、大きな声で、向こう側の乗客を呼び、こう叫んだのである。
 「一体君は、こうまで、日本が追いつめられていたのを知っていたのか。なぜ戦争をしなければならなかったのか。おれは政府の発表したものを熱心に読んだが、なぜこんな大きな戦争をしなければならなかったのか、ちっとも判らない。戦争は勝った勝ったで、敵をひどく叩きつけた、とばかり思っていたら、何だ、無条件降伏じゃないか。足腰も立たぬほど負けたんじゃないか。おれたちは知らん間に戦争に引き入れられて、知らん間に降参する。怪しからんのはわれわれを騙し討ちにした当局の連中だ」
と盛んに怒鳴っていたが、しまいにはおいおい泣きだした。車内の群衆もこれに呼応して、そうだそうだといってワイワイ騒ぐ。
 私はこの光景を見て、深く心を打たれた。彼らの言うことはもっとも至極だと思った。彼らの憤慨するのも無理はない。戦争はしても、それは国民全体の同意も納得も得ていない。 国民は何も知らずに踊らされ、自分が戦争をしているのではなくて、軍人だけが戦争をしている。それをまるで芝居でも見るように、昨日も勝った今日も勝ったと、面白半分に眺めていた。そういう精神分裂のあげく、今日惨憺たる破滅の淵に突き落とされたのである。もちろんわれわれはこの苦難を克服して、日本の国家を再興しなければならないが、それにつけてもわれわれの子孫をして、再びこのような、自らの意思でもない戦争の悲惨事を味わしめぬよう、政治の組み立てから改めなければならぬということを、私はその時深く感じたのであった。











  


 幣原は、この日以降、自宅にこもって日本の再興を考える日々が続いた。幣原はのちにこのときの思索を『終戦善後策』という文章にまとめ、吉田に見せることになる。

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