沖縄県石垣島市の憲法9条の碑
 沖縄県石垣島市にある憲法第九条の石碑を見つけたのは、2007年6月に沖縄県、石垣島方面に旅行したときのことであった。石垣島に一泊し、朝、ふらりと近くの公園まで散歩に出かけたとき、公園の一角に、人の体ほどの高さの石碑があって、「戦争の放棄」として憲法第九条が掲げられている石碑をみたのである。(その時撮った写真が右)
 表には「日本国憲法、第二章 戦争の放棄」として、憲法第九条が書かれた大きな石の碑文があり、横の小さな石には次のような碑文が書かれていた。

「憲法9条は、日本の平和及び安全の道標であることを確信している。しかし内外の諸情勢には、いぜん厳しいものがある。よって私たちは迷うことなく「憲法9条の碑」をここに設置し、改めて内外にその意義を闡明(せんめい)にする。  2004年11月3日 憲法9条の碑設置石垣市民の会  デザイン・潮平正道 書・豊平峰雲 」
 この碑文について、インターネットで検索したところ、『インターネット新聞ジャンジャン』というサイトに2004年12月18日付で次のような記事が載せられていた。
  「沖縄戦において日本の最南端に位置する石垣島の近隣の島々では、日本軍の命によってマラリア有病地帯への強制移住があり3600余の犠牲者を出した悲惨な戦争体験がある。日本の侵略を受けた国々と常に隣接し国境の地に住む島人達は、憲法9条に平和を託するところは大きい。 人口4万6000余の住む石垣市で、去る6月「憲法九条の碑」設置市民の会を設立、かつて日本の侵略を受けた中国大陸の石に、平和の誓いである九条を刻み碑とする事を考えた。鳩を刻んだ石(高3.4m)を平和のシンボルとして、今、倒れようとする平和の石を、憲法9条を刻んだ巨石がこれを支える事を意味するデザインとし、現憲法の公布の日である11月3日に序幕した。」 この時の旅行は、西表島にある『忘忽石』を訪ねていくことが目的であった。忘勿石とは、戦争中、波照間島から西表島に軍命によって強制疎開させられた住民が、西表島の疎開地で、マラリアにかかり、疎開した島民の約3分の1が次々亡くなっていく。見かねた波照間国民学校の校長であった識名信升氏が、中野学校出身の派遣兵士に交渉して、帰島を願い出たという。派遣兵士は軍刀を掲げて「島に戻るというなら、命はないものと思え」といって帰島を認めようとしなかったが、再三の懇願に負けて、ようやく認めたのであった。それから、島に帰るまでの1週間、識名校長は、浜に出て、その一隅に「忘勿石」と彫った。
 私は、以前、波照間島を訪れたときに、帰島にまつわる話を建てられた石碑で知った。その石碑を訪ねていくことが旅の目的であったのだが、偶然、この石碑を見たときに、また新たな感慨に浸った。以後、私の憲法第九条碑への旅が始まり、今も続いている。
 
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