幣原の経歴

 幣原の経歴についてもう少し詳しく述べておきたい。彼は戦前から戦後に活躍した外交官、政治家である。幣原が第2次大戦後、2人目の首相となるまでの略年譜を宇治田直義著『日本宰相列伝 幣原喜重郎』(昭和33年5月1日初版 時事通信社)を参考に年表風にまとめてみる。

1872  明治5年  0歳  8月11日 大阪府門真一番下村に生まれる  父新次郎の話 長男坦に続いて二人目も男の子だったので喜びが重なった、と喜重郎と名付けた
1874  明治17年  11歳  9月 官立大阪中学校入学   
1892  明治25年   20歳 7月10日   第三高等中学校卒業  
 1892 明治25年  21歳  9月  東京帝国大学法科大学法律学科入学   日清戦争起こる
1895  明治28年  23歳 7月10日  東京帝国大学法科卒業   
1896   明治29年  24歳 9月25日  第4回外交官及び領事館試験合格   
 1896 明治29年  25歳   10月6日 仁川領事館在勤を命じられる   イギリス領事の妹を憎からず思う。
 1899 明治32年  28歳   5月31日 ロンドン総領事館の在勤を命じられる   ロンドンでイギリス領事の妹と再会 恋仲になる。親族、同僚、先輩に反対され、結婚をあきらめる。
         アンベルス・プサンの領事館に在勤  
 1903 明治36年  32歳   1月20日 男爵岩崎久弥の妹、雅子と結婚   雅子との結婚により、三菱財閥の岩崎家と縁戚となるが、清廉潔白な幣原は三菱閥の財力を利用しなかった。
 1904 明治37年  32歳  4月1日  本省在勤 このころデニソンと親交   日露戦争起こる。
1911  明治44年  40歳   7月29日 外務省取り調べ局長    
 1912 明治45年  41歳  5月8日  アメリカ大使館参事官としてアメリカ在勤  
 1913 大正2年   42歳  11月4日  イギリス在勤  
 1914 大正3年  43歳   6月26日 オランダ・デンマーク駐在   第一次世界大戦起こる
 1915 大正4年  44歳   10月29日  外務次官となる  
 1919 大正8年  47歳   9月11日 特命全権大使としてアメリカ駐在   
 1921  大正10年  50歳   11月11日 ワシントン会議出席   
1924 大正13年  53歳   6月11日 外務大臣になる。幣原外交の本質と理念 を述べる  
 1930 昭和5年  59歳    幣原外交に対し反幣原外交熱高まる   
   昭和5年 59歳  11月15日  内閣総理大臣臨時代理となる   
 1931  昭和6年  60歳   12月18日 外務大臣辞職   
 1945  昭和20年  74歳   10月6日 天皇陛下より組閣の大命を拝す   

 宇治田氏の前掲書には明治以後の日本外交のなかで、幣原喜重郎が果たした多大な役割について、詳述している。氏の著書を参考にしながら、幣原の生涯のうち総理大臣となるまでのことについて、エピソードをいくつか挙げてみたい。

エピソード1 大阪中学
 幣原は門真の小学校から大阪中学校という英語を中心に教える官立の学校に入学した。中学2年生の時、英語の時間のはじめに英国人教師が
「誰か、英語で何かいいなさい」
といった。教師としては、まず英語で話す習慣をつけさせようとしたのだろう。しかし、誰も答える者がなく、生徒は沈黙したままだった。生徒にとって英語を学び始めてまだ一年しかたっていないので先生の前で話すことは出来なかったようだ。さらに、先生の前で英語で話すということは恐れ多いという感覚があったのかもしれない。教師はなおも
「英語で何か言うように」
と生徒達にいった。沈黙が続いていた。そのとき突然、幣原が手を挙げて、立ち上がり、
-See the moon and stars.-
と朗々と唱えた。これは、中学一年生の時に習った英語の教科書に載っていた(月を見よ。星を見よ)という一文である。このことで幣原は教師大いに褒められ、
「すばらしい、あなたはたいへんよい生徒だ」
と絶賛される。このことで気を良くした幣原は、よりいっそう英語を勉強するようになり、優秀な成績を収めるようになった、という。



 父新治郎と喜重郎のきょうだい。左端が喜重郎 

エピソード2  父新治郎
 明治18年、関西地方を大洪水が襲い、門真一番下村の幣原の実家も数年は作物が実らないほどの大打撃を受ける。洪水後の厳しい生活の中で母の静は、逝去する。父の新治郎は、多額の借財があるにもかかわらず、なおも親類に借金をして、兄のたいらを東京帝国大学の文科に、弟の喜重郎を法科に入学させる。
「百姓の家柄であるのに、そんなことをしてまでなぜ、子供を大学にやるのか」
と親類の者に問い詰められた父、新治郎は、
「自分は百姓の子で、学校にも行かせてもらえず学問もないのだが、せめて子供には立派な教育を受けさせたい、学校に行かせたい、と願っている」
と答え、親戚一同を黙らせたという。

エピソード3 幣原の結婚
 幣原は、第三高等学校を卒業(首席卒業)し、さらに東京大学の法科を優秀な成績で、卒業する。そうして第4回外交官試験に合格した幣原は、領事として、仁川、ロンドンなどの領事館に勤める。あるとき、仁川で知り合ったイギリス領事の妹とロンドンで再開し、お互いを憎からず思うようになり、お互いの将来も考え始める間柄になった。しかし、同僚、先輩や親族に相談しても、イギリス女性との結婚にみなあまりいい顔はしない。思い悩んだ幣原は先輩の石井菊次郎に相談する。
「日本を代表して外国と交渉しなければならない立場たる外交官が、外国の女性と結婚するのはいかがなものか」
と石井に諄々と諭されて、ついにイギリス女性との交際をあきらめる。その後、紹介する人があって三菱財閥の岩崎久弥妹、雅子との縁談が進み、結婚する。これによって、幣原は、岩崎家と縁戚関係となる。東京本省に戻り、外務大臣官房電信課長となる。

エピソード4 デニソンとの交遊



    
ポーツマス講和会議 の日本代表・後列中央がデニソン (日本経済新聞平成12年6月2 日朝刊  文化欄より) 

 幣原は、東京に戻って電信課長となったころから、外務省顧問のヘンリー・ウイラード・デニソンと親交を結び、毎朝彼と皇居の周りを散歩することが日課となった。デニソンは、1846年アメリカ、バーモント州ギルトホールで生まれ、1869年(明治2年)に日本に渡り、米国領事館裁判所判事となった人である。
 デニソンは1878年(明治11年)判事を退職後、1880年(明治13年)「万国公法副顧問」の肩書で外務省のお雇い外国人となった。以後、1914年(大正3年)に没するまで、長年外務省の顧問として、歴代外務大臣から絶対的信頼をおかれ、日本がアメリカなどと幕末に交わした不平等条約の撤廃や、日露戦争の交渉などを日本側の立場から精力的にアドバイスしていた。
 幣原と出会ったころは、デニソンは58歳、幣原は33歳であった。子どものなかったデニソンは、幣原を息子のように可愛がり、大隈重信、榎本武揚、陸奥宗光ら歴代の外務大臣が手掛けた条約改正の草案を作成したことや、不平等条約の改正にむけて日本政府の立場に立って改正案の英文を起草したこと、外交文書の書き方、外交交渉のことなど、毎朝、皇居の周りを散歩しながら、あれこれ話してきかせたようだ。たとえば次のような話をデニソンは幣原に語った。
「外交でも商売でも要領はまったく同じだ。自分の知っているある知名の老実業家が、ある日自分の倅(せがれ)を呼んで、お前に一言いって聞かせたいことがあるといって、私はいままでに正直なこともまた不正直なこともやってみたが、結局は正直なほうが儲かったという平凡な話をしたが、外交も同じことだ。」
 今まで幣原にとってデニソンは、外交官として大成するための師とも言うべき存在であった。
 8年後の明治45年、幣原が、駐米大使館の参事官としてアメリカに赴任にすることになり、そのとき、デニソンも一緒にアメリカに一時帰国することになった。帰国前、デニソンの部屋を片付けを手伝っていた幣原は、日露戦争開戦前後の文書を見つける。その文章についてデニソンに尋ねると、デニソンは次のような話をしたという。(幣原喜重郎著『外交50年』より引用)

日露戦争前、大臣の小村(寿太郎)さんに呼ばれ、
「ロシアは何としても満州から撤退しない。自体が非常に面倒になってきた。そこでロシアと交渉を始めようと思う。それで粟野駐露公使宛電文案を起草してくれ」
という。デニソンは承知して、家に帰って考えてみたが、どうも書けない。一晩中苦しんだけれども一行も書けない。翌朝小村さんの官舎にいって、正直にそのことを告白した。
「お言い付けになりました電文は一行も書けませんでした。実は小村大臣、あなたの本当の覚悟が私には判りません。相手がこちらの言うことを肯かなければ、戦争になっても仕方ないというお覚悟がありますか。それともどうしても戦争を避けるとお考えですか。そこのところ、すなわちあなたの最後の腹を聞かないと、どっちにも通じるような文案は私には書けません」
といった。小村さんはじっとそれを聞いていて、
「それは結局談判の経過によることだ」という。デニソンは、「それで判りました」
といって、家に帰り、すぐ電報の案文を書いて小村さんにさし出したという。私(幣原)はデニソンに向い、
「ちょっと待ってください。そうすると小村さんの覚悟があるとないとによって、どう書き方が違って来るのですか」
と聞くと、デニソンは、
「もし小村大臣に非常な覚悟があるなら、電文をなるべく柔らかく書く。つまり日本はどこまでも平和に拳拳として、妥協に誠意のあるように書く。これに反して、その反対の場合、どうしてもこれは纏めなければならぬということであれば、すこし強い文章を書く。つまりそういう場合には、多少恫喝的の文句も使わなければならぬこともある。小村大臣はいちばん情勢をよく知っていて、どうせこんな交渉をして及ぶ限り交情妥協の誠意を示したところで、露国側では同様の誠意をもってこれを迎えない。結局交渉不調に終わることを看破しておられる。それだから交渉の経過によるといわれた。これは交渉が破裂することを予期しておられるので、小村大臣の腹はちゃんと決まっているのだと、私はみてとった。まああの電文を見て御覧なさい。私は非常に細かく書いたから」
という。私はなるほどそういうものかと、電報文をとりだして読み直してみるとなかなか含蓄のあることが書いてあった。彼の事務室の机中にあった机の抽斗(ひきだし)から例の日露交渉の書類草案の綴り込みがが出てきた。 読んでみると実に面白い。一度書いたのをコピーニ氏、さらにまた書き入れ書き入れをして、一つの電文が稿を改めること、多いのは実に十数回に及んでいる。それは偉いものである。これは好い記念である。同時に私にとって非常に参考になると思ったから、
 「この綴り込みを私にくれないか」
と所望した。すると彼はしばらく考えていたが、その綴り込みを取って前にあるストーブの火中へパッと投げ込んだ。私はアッと叫んだが、書類は見る間に炎になってしまった。
「君は気が狂ったんじゃないか」
と言うと、
「いや、気が狂ったんじゃない。これを君にやると、君は必ずいつまでもこれを保存して、人に伝えるだろう。そうするとデニソンは日露交渉に主要な役目をしていたもののごとき風説をうむかも知れない。この交渉がうまく行ったのは全く小村さんの功だ。自分はその功に参加する権利は少しもないのだ」
と彼は語った。
彼の謙譲にもかかわらず、1管の筆、よく世界の同情を日本に引きつけたことは、彼の大なる功績といわなければならない。その証跡を、彼は湮滅してしまったのである。私は彼の顔を見詰めて、しばらく自分の感動を抑えることができなかった。




























参考 小村寿太郎発 栗野慎一郎駐露公使宛 電文(これはのちほど掲載する予定です)

エピソード5 ワシントン会議
 ワシントン会議は、第一次大戦後、肥大化した軍備の制限問題と、これに関する太平洋および極東問題を討議するために大正10年(1921年)に開催されたものである。幣原は、このころ駐米大使としてワシントンにあり、会議の始まる前から、会議成立に向けて各国担当者と精力的に話し合っていた。会議の事前準備として、アメリカ、イギリス、フランス、イタリアと日本を加えた五カ国で軍備制限会議を招へいする計画を立てて、さらに中国、ベルギー、オランダ、ポルトガルを加えた9カ国で太平洋問題及び極東の問題を話し合おうとしていたのであった。極東問題というのは、九カ国条約に関することと山東問題を中心とする会議のことである。この会議で、中国は、第一次大戦直後のヴェルサイユ会議でアメリカの同情を勝ち得た関係もあって、大正4年(1915年)に日本が中国に対しておこなった「21カ条要求」を問題として、一挙にその関係条約を破棄しようとしていた。中国側は、会議が開かれる前からワシントンに入り、
「日本が中国に対して行った21カ条の要求は、日本側の高圧手段による不法の合意である」
として反抗の声を上げ、ワシントン会議を好機として、この問題を提起し、列国の同情に訴えていた。
『そうしてまだ会議の始まらない前から、アメリカにおいて、中国側の宣伝が行われた。それで、アメリカの新聞には、日本と中国との間に山東省の問題について非常な紛争が起こっていて、いつ戦争が勃発するかもしれないなどという想像説が盛んに流布された。』(幣原『外交50年』)
 そこで、幣原は、ヒューズ国務長官にあって、山東問題について、日本政府はこの問題を中国と妥協しようと、交渉開始を試みたが、中国政府は交渉に応じなかった経緯を相当詳細に説いた上で、
「今度ワシントン会議が開かれるについてはいずれの国の代表者もみなこの会議の成功を期待していると思う。もちろん私も期待している。しかし、それが果たして成功するか否か、それを決する鍵はあなたの手の中にあります」
といって、ヒューズ氏の手をさした。すると彼は


 ワシントン会議 
    (1921年)

「私はこの際、厳粛にあなたに誓います。この会議にアメリカは、一方に偏した不公平な考え方は絶対にしません。私は名誉をもってあなたに誓います」
という。これによって、山東問題の会議は、極東問題の会議から切り離して、日華委員だけの直接会談によって二カ国で纏めることになり、アメリカ、イギリスはオブザーバーとして参加することになった。山東問題が日華直接会談ということになったので、中国側は非常に不平で、山東省の代表団の人たちは中国大使館で行われた国務省の役人も数名招待されていた宴会の席上、乱暴狼藉の大騒ぎを演じたという。
 このようだから、中国側の委員は山東問題を妥結する意思は始めからなく、いうだけのことをいって、結局は山東会議を決裂してしまおうと意図していたようで、会議は開始後、4,5日で全く暗礁に乗り上げ、二進も三進も動きの取れない状態になる。
 このころ、幣原は、激務のためについに身体を壊し、腎臓結石で病床にあり、11月2日から開催された開会式には出席できず、病床から、日本側の報告を聞くという状態だった。
 会議では、中国側の委員が流ちょうな英語で火の出るように日本の悪口をいう。そうすると日本側でも気が荒くなり、興奮のあまり、卓上に、鉛筆を投げつける、という場面もあった。こんな具合で山東会議は日増しに険悪になっていた。幣原喜重郎の『外交50年』には次のように記されている。

ある日、この会議から帰った加藤全権は、大使館に立ち寄り、私の病室に入ってくるなり、
「もう駄目だ。このままでは二,三日中に決裂だ。到底いかん」
とすっかりさじを投げた。そして
「東京を発つとき、こんな問題は、みな君に引き受けてもらうことに原(首相)と話し合ってきたのだが、君に寝てしまわれてはどうにもならん。今晩は一つ、ニューヨークにでも行って、遊んでこようか」
などと言い出して大分やけになっている。・・・(その話を聞いて幣原はもう黙視することができず)
 「私は明日から山東問題会議に出席する。あなたのいわれるような情勢では、山東会議を成功させる成算は、私にもない。しかし日本が何も無理な要求をしているのでないということを、英米その他の傍聴者に諒解させる必要があるから、私は成算の有無を度外視して、最後まで奮闘する。」
と、出席することを決意する。
(幣原は、何週間も寝ていたので、足がふらふらする。大使館の階段は相当長い。やっと降りて抱えられるようにして、自動車に乗った。)
 会場では彼らは英語で雄弁滔々、しきりに植原君と論戦している。聞いていると黙っていられなくなり、私は発言した。
「私は今日、オブザーバーのつもりで出てきたのだが、中国全権の発言中には、私の理解し得られないところがあるから一言する。日本は山東省の鉄道その他を奪い取るようなことをいわれるが、それは違う。買収の額なるものは、パリ講和会議でちゃんと決まっている。日本は相当の額を払うのだから盗人でも何でもない」
「日本は代償を支払うのですか」
「パリ講和会議の記録をよく調べてご覧なさい」
「それならば、われわれも誤解していた」
こんな具合でその日は散会となった。翌日になると、中国側の態度がガラリと変わり
「それならば日本の態度はわかる」
と言いだし、会議もぐんぐん進んだ。しかし何分にも会議は1時半ごろから始めて夜8時か9時ごろまで飯も食わずにやることもあるので,私の病体は極度に疲労衰弱した。・・・ 山東問題の日華会談はいよいよ最終の段階に入り、これまでの話し合いのついたものを纏めて、条約案を起草しようということになった。王寵恵氏と私がその起草委員になった。 二人は小さな別室で会合し、差し向かいで起草に着手した。すると中国の若い連中が、その部屋に入ってきて、いろんなことをいう。中にも随員の一人で、イギリスの大学出だとかいうなかなか英語の達人がいて、横から口を出し、そんなことは議場で決定したじゃありませんかなどと、うるさくいう。王寵恵氏は憤然として
「お黙りなさい。君は全権ではない。私は幣原と話しているのだ。発言するなら出ていきたまえ」
とやっつけた。王寵恵氏は当初一番日本に反感をもっていたらしかったが、こうなると非常に打ち解けた態度で、条約案も一瀉千里の勢で出来上がった。そしてそれが本会議で本会議に報告され、成案となった。 




























  エピソード6 外務大臣 幣原   
 幣原は、大正13年(1924年加藤高明内閣ではじめて外務大臣となる。以降、若槻内閣(1次2次)、濱口内閣憲政会立憲民政党内閣で、4回、外相を歴任した。この間に対米英協調と民族運動が高揚する中国において、幣原は、あくまで利権の回復のみを求める内政不干渉方針で対応する。彼の1920年代自由主義体制における国際協調路線は「幣原外交」とも称された。
 ロンドン海軍条約が調印されたのは1930年(昭和5年)4月のことだった。これは、イギリス、アメリカ、日本、フランス、イタリアにより、1930年(昭和5年)4月22日にロンドンで調印された海軍の軍縮条約である。1921年(大正10年)のワシントン条約において、主力艦保有トン数の比率を、イギリス5・アメリカ5・日本3・フランス1.67・イタリア1.67としていたが、補助艦については巡洋艦の排水量1万トン、砲口径8インチ以内とされていただけであったので、各国の補助艦の建造競争がし烈化していった。そのため、1927年(昭和2年)にはジュネーブ会議が開かれ軍縮問題が論議されたが、未解決のままに終わったので、1930年1月21日、先の5カ国が参加し、ロンドンで海軍軍縮会議が開催されたのだった。交渉は日米の対立もあり難航したが、アメリカの妥協案によって、主力艦については、
 ワシントン条約による建造休止期限を31年末から36年末に延長すること、
 補助艦については補助艦総括で日本は対アメリカ6割9分7厘5毛、大型巡洋艦で、6割とするが、アメリカは3隻の起工を遅らせて、36年までの条約期間中は、7割とすること、
 潜水艦は3国とも5万2700トンとすることなどで妥協案が成立した。
 日本では、補助艦総括について対アメリカ7割、大型巡洋艦については対アメリカ7割、潜水艦自主保有量7,8000トンが必要であるとする海軍と、財政緊縮と国際協調の立場から軍縮を主張する浜口内閣が対立しており、妥協案についても加藤寛治軍令部長らの猛烈な反対があったが、岡田啓介軍事参議官らの努力もあって、妥協案が成立、4月22日に条約は調印された。
 しかし4月下旬に始まった弟58帝国議会で、野党の政友会総裁の犬養毅と、鳩山一郎が、
「ロンドン軍縮条約の調印は、軍令部の意見を無視した統帥権の干犯である」
との攻撃を浜口内閣に対して行った。
 統帥権とは、軍隊の最高指揮権で、大日本憲法では、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」(11条)と規定され、天皇の大権の一つとして国務大臣の輔弼の外におかれ、政府も議会もこれに関与できないとされた。これを統帥権の独立というが、1878(明治11)年の参謀本部独立により、軍政(軍に関する行政事務)と軍令(作戦用兵に関する統帥事務)は分離され、天皇は軍令機関である陸軍参謀総長、海軍軍令部長の輔弼を受け、陸海軍を統帥した。
 政友会の目的は、海軍の強硬派と連携して、統帥権干犯を口実にした倒閣にあったが、これは軍令部の不満層や、右翼団体を大いに刺激した。政友会に呼応して加藤軍令部長が6月10日、統帥権干犯を批判し天皇に辞表を提出したが、条約自体は7月末から批准のため、枢密院での審議に入り、浜口首相の断固たる態度から枢密院本会議を通過し、10月2日天皇の裁可を受け批准された
 首相の浜口雄幸と幣原は、大阪中学校時代からの同級生で東京大学在学中も、勉強においてよきライバルであった仲の良い友達であった。
「統帥権干犯」という批判が政友会、右翼を中心として日増しに高まっていった昭和5年(1930年)11月14日、浜口首相は兇漢に狙撃される事件が起こった。幣原はこの日、たまたまロシアに大使として赴任する広田弘毅を見送りに東京駅に行っていた。駅に着くと駅長が、
「今すぐ総理大臣が来られますから、貴賓室でお待ちください」
という。幣原は「私には関係ないことだ」とホームに上がっていった。広田を見送った後、ホームで銃声がして誰やらが貴賓室に担がれていく。「首相が撃たれた」と周りの者が大騒ぎしている。幣原が急いで、貴賓室に行くと、浜口が苦しい息の下からハッキリと
「男子の本懐だ」
と言っている。そうして銃で撃たれてことについても
「昨日の閣議の総予算案の閣議も片付いたので、いい時期だった」
などといろいろ話しかけてくる。幣原は、
「ものをいうとどんどん血が出るから、ものをいっちゃいかん」
と、止めたが幣原がいると話しかけるので、そっと駅長室を出た。
浜口は重傷を負ったが、なんとか一命は取り留める。 病床にある浜口に野党は執拗に国会出席を求めた。浜口は、どうしても議会に出るという。
「俺はこういうことで攻撃を受けると、病気だといって引っこんでいるにしのびん。議会でいろんな質問に答えるのは総理大臣としての当然の職務だ。どうか止めないでくれ」
と言って、とうとう出たこともあった。その後、浜口に代わって、幣原が首相代理となり、本会議に出席する。
 陛下の裁可なく、政府が海軍の兵力を削除するような条約を結ぶことは統帥権干犯である、という論は、幣原からすれば違っていた。軍令に関するものは、軍事参議官会議にかけ、その議決を経ている。たとえば出兵その他、軍の命令は陛下の勅命によるのであるが、その勅命は、軍事参議官会議の議決を経てそれから親裁を仰ぐことになっている。この会議には海軍大臣も出席しているから、天皇の大権は軍事参議官がこれを輔弼する。政府はそれに干渉するということはない。軍事参議院に出席した海軍大臣が、海軍条約の批准を奏請するにあたり、責任をもって署名しているということは、軍事参議官会議の議に反しないということになる。こういう意味の答弁をするつもりで、
「海軍条約がどうして御諮詢になったかということを考えれば、それは大権干犯でないことは明瞭である」
といった。すると、後ろの方で傍聴していた和服姿の男が手を挙げた。すると議場がにわかに緊張し、「幣原、取り消せ、取り消せ!」と絶叫する声が四方に起こった。
和服姿の男は政友会の森恪であった。そうするうちに政友会委員や、傍聴者がどっと幣原に殺到してきた。
「天皇に責任を帰し奉るとはなにごとか!」「単なる失言ではない!」「総辞職せよ!」
とたちまち議場は大混乱となった。政友会では事前に打ち合わせて、森の合図で代理首相の幣原の答弁を遮るために全員が声をあげるようにしていたのだった。幣原が発言しようとしても、野党側では、ただもう騒ぐだけで幣原に一言も口を開かせない。それで予算員会はいったん休憩になった。
 予算委員会は再開されたが、幣原が出るとまた騒ぎ出して、委員長がまた休憩を宣した。幣原が予算委員会室を出ようとすると、室内の一隅におかれたラジエーターの陰に誰か隠れていた。変な所に人がいる、と思いながらそこを通り過ぎようとすると、その男が後ろから幣原のズボンを引っ張ろうとする。室内は議員や傍聴者が退場中で立錐の余地もないほど混みあっていた。もし幣原がそこで倒れれば、勢いに押されていっせいに幣原の身の上に倒れ重なってしまう。幣原はとっさに、振り向きざま足をあげて、靴のかかとで足を引っ張った男の額を蹴り上げた。男の額から血が流れて、その男はヨロヨロと後ろに倒れた。幣原は素知らぬ顔をして、廊下をゆうゆうと歩いて自室に帰った。男はその後、新聞にも名前が出ず、そのままになった。どうやら院外団のものらしい。幣原が後から聞くところによると、総理大臣の代理というのは置けるのだが、その代理の代理というのは法律上置けないものらしい。だから幣原が負傷して引っ込むと、それで内閣は崩壊ということになり、そこへもって行こうという策略もあったようだ。
 このような事情で予算員会はこの日、流会となり、その後10日間も空転した。結局、幣原が
「失言であった」
と陳謝することで委員会は再開されたが、これ以後、統帥権は三権から独立した権能として独自の道を歩み始め、統帥権が三権分立国家の枠外にある、『統帥権国家』となっていく。憲法では「天皇ハ陸海軍ノ編成及常備兵額ヲ定ム」(弟12条)ト編成大権を規定していたが、本来は軍政機関であるはずの軍部大臣には、軍事に関する事項を閣議を通さず,上奏できる帷幄上奏権が与えられていたため、編成大権も統帥権に属し、政党内閣がタッチすることができないという解釈がまかり通るようになり、軍部の政治介入に根拠を与える結果になった。
 1931年9月18日夜10時半、中国大陸の奉天(今の瀋陽)で突然砲声が響き渡った。奉天首席領事の森本守人は10時40分、奉天特務機関から
「北大営付近で中国軍がわが満鉄線を爆破し、軍はすでに出動中だから、至急来てくれ」
との連絡を受けた。森島がかけつけると、関東軍の板垣征四郎高級参謀は、総領事館の協力を求めた。森島が
「軍命令はだれが出したか」
と尋ねると、板垣が、
「司令官不在のため自分が代行した」
と答える。森島が平和的解決の必要を力説すると、板垣に付き添っていた奉天特務機関の花谷彰正少佐が森島に向かってにわかに軍刀を引き抜いて
「すでに統帥権の発動をみたのに干渉するのか」
と詰め寄り、容赦しないぞ, と言わんばかりに恫喝した。
 その夜、森島は外務省宛に以下の暗号電報を打電した。



 事件直後の柳条湖の爆発現場

「支那側に破壊せられたりと伝えられる鉄道箇所修理のため、満鉄より保線工夫を派遣せるも、軍は現場に立ち寄らしめざる趣にて、今次のことはまったく軍の計画的行動に出たるものと想像される」
 事件後、林総領事は、幣原に、
「この事件は、外交交渉によって解決しうること」
を力説して、関東軍を抑制することを要請した。
閣議が開かれた。南治郎陸相は
「支那正規兵が柳条湖の満鉄線路を爆破し、巡察中のわが河本中尉に発砲したが、わが方の伸速果敢なる行動によって満州の治安は確保された」
と述べた。すでに林総領事からある程度の実情を知らされていた幣原は、極力事変の不拡大を強調するとともに, 間もなく発せられた政府声明において極力軍部を抑制しようとした。これに対して南陸相は
「これが軍最後の保護手段である。これ以上断じて軍事行動に出ない」
と繰り返し局地的解決方針を説明した。しかしその後、関東軍は陸軍中央の局地的解決方針を無視して、自衛のためと称して戦線を拡大していく。
 アメリカのスティムソン国務長官は、幣原に、戦線不拡大を要求した。これを受けた幣原は、陸軍参謀総長金谷範三に電話で、戦線を奉天に止めるべきこと、と伝え、金谷はこれを承認した。しかし金谷の抑制命令が届く前日に、石原莞爾ら関東軍は、錦州攻撃を開始してしまう。軍の内部は、上官の命令を無視して下士官が行動する、といういわば下克上のような状態で、陸軍大臣でも、海軍大臣でも青年将校を抑えることができないようになってしまっていた。いいかえれば軍の命令系統は、参謀総長もしくは軍令部総長が握っていて、総理大臣といえどもそれに関係することができない、という仕組みを『統帥権』という大日本国憲法の中の一条が作り上げてしまったのだった。以後、日本は立憲国家の体をうしない、日中戦争、太平洋戦争と敗戦までの14年間、破滅に至る道を歩んでいく。
 昭和6年12月、第二次若槻内閣が満州事変が原因で総辞職したため、幣原も辞職し、以後、政界を引退したのであった。

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