日本国憲法のモデルプラン作成

 1946年2月3日、日本側が総司令部に提出しようとしていた憲法草案が、大日本国憲法の字句を修正したものにすぎないことがわかると、ホイットニ―は、
「日本側の作成した憲法草案について検討して膨大な時間を費やすよりも、われわれの考えていることはこうだ、と日本側に提示して論議する方が戦術的に優れている」とマッカーサーへ進言した。
 ホイットニーの進言は認められ、総司令部の民政局が日本国憲法のモデルプランを作成することになった。ソ連、中国などの代表も参加する極東委員会の発足が2月26日に迫っており、それまでに憲法草案が完成していなければ、極東委員会によって、日本の憲法が作成される可能性もあり、そうなると、ソ連や中国、オーストラリアなどの利害も出てきて、新しい憲法を作成するまでに膨大な時間がかかることになる。そうなる前に、一定のまとまったものを作っておく必要があった。そうするためには、時間的猶予があまりなかった。マッカーサーはホイットニーに、モデルプランが完成する期日を2月12日と定めた。それは、マッカーサーが敬愛し、彼の執務室にも肖像画が飾っているリンカーンの誕生日でもあった。
 鈴木昭典著『日本国憲法を生んだ密室の九日間』(創元社 1995年5月1日発行〉は、憲法のモデルプランの中心となって実務的な作業をしたチャールズ・L・ケーディスや、アルフレッド・ハッシ―、マイロ・ラウエルの紹介、日本国憲法のモデルプランが作成されていく過程が、実証的にえがかれているすぐれた著作である。この書を参考に、総司令部の民政局を中心として、日本国憲法の基本となるモデルプランが作成されるまでの過程、特に戦争放棄条項が憲法に盛り込まれるまでのようすをえがいてみたい。
 2月3日の日曜日、ケーディス大佐はホイットニー准将から総司令部に11時に来るように電話で呼び出された。朝の11時前、日比谷の第一生命ビルにつくと、アルフレッド・ハッシ―中佐 マイロ・ラウエル中佐はすでに来ていた。鈴木氏の著には次のように書かれている。

「最高司令官は・・・・」ホイットニーはケーディスが座るのを待ちかねたように口を開いた。
「我々民政局に日本国憲法の草案を書くように命令を下された。諸君もすでに知っている通り、毎日新聞のスクープ(2月1日)によって明らかになった日本政府の憲法改正案なるものは、極めて保守的な性格のものであり、天皇の地位に対して実質的変更を加えていない。天皇は、統治権をすべて保持している。この理由から、改正案は新聞の論調でも世論でも、評判はよろしくない。
 松本は昨日、新聞記者に対して、(天皇の地位は実質的にはこれまでのままであり、ただ文言に若干の変更があるにとどまる)と述べている。 こういういきさつの末に、外務省の係官が昨日、火曜日(2月5日)に予定されていた松本案討議のための吉田首相との非公式会談を、木曜日(2月7日)に延期してほしいと申し入れてきた。我々は、これに対してさまざまな可能性を考えて、会談を一週間(2月12日まで)延期した。
 これは憲法改正の主導権を握っている反動的グループの考えが、最高司令官が同意できるレベルからはるかにかけ離れていることが、予想できたからである。
 私の意見としては、憲法改正案が正式に提出される前に彼らに指針を与える方が良いように思う。受け入れられないような案を彼らが決定し提出してきてからやり直しを強制するよりも、その方が戦術として優れていると最高司令官に具申した。その結果、本日命令が下ったのである」
 そしてホイットニーは、やおらグリーンの罫の入った黄色のメモ用紙を取り出すと、
「我々が草案を作成するにあたって、最高司令官は、三つの原則を書かれた。この文書がそれだ。最高司令官は、われわれ民政局の能力を極めて高く評価している。絶対にその期待にこたえなければならない」
と話をしめくくった。 

それからホイットニーは、3人にマッカーサーが示したという憲法のモデルプラン作成のための三原則を示して詳細に説明した。
〈天皇はヘッドの地位にある。 皇位は世襲される。
 天皇の職務および権能は憲法に基づき行使され、憲法に示された国民の基本的意志に応えるものとする。

 国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、廃止する。日本は、その防衛と保護を今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。
 日本の封建制度は廃止される。
 貴族の権利は、皇族を除き、現在生存する者一代以上には及ばない。 華族の地位は、今後どのような国民的又は市民的な政治権力の伴うものではない。
 予算の型は、イギリスの制度にならうこと。>
  
マッカーサーが示した三原則のうち、第二番目の戦争放棄条項〈筆者が太字で示した部分)は、幣原がマッカーサーとの会談で話し、マッカーサーも大いに共感した、戦争放棄条項である。天皇制の維持を謳った第一項と、日本の封建制度は廃止されることなどを謳った第三項と比べ、第二項は、定義、哲学が包含された、かなり推敲されたものであった。
 「今度新憲法が起草されるときには、戦争と軍事施設維持を永久に放棄する条項を含むよう提案した。幣原首相は、この手段によって、日本は軍国主義と警察テロの再出現を防ぎ、同時に自由世界の最  も懐疑的な人々に対して、日本は将来、平和主義の道を追求しようと意図しているという有力な証拠をさえ示すことができると述べた。さらに幣原首相は、日本はすべての海外資源を失ったのであるから、 もし軍事費の重圧から解放されさえすれば、膨張する人口の最低限度の必要を満たす機会をどうにか持つことができることを指摘した。この問題をマッカーサーと幣原首相の二人は、二時間半にわたっ  て話し合ったようであった」(ホイットニー伝 92ページ)
 「憲法草案の準備を進めるように私(ホイットニー)に命じたとき、マッカーサーは、その草案が『国家至高の権利としての戦争は廃止される』という原則を含まなければならないと注意した。・・・・日本側がど  んな形にせよ一度も異議を唱えなかったのは、この戦争放棄条項ただ一つだった。」(ホイットニー伝)
  ホイットニーからかなりの時間にわたって説明を受けたあと、ケーディス大佐ら三人は、日曜日にもかかわらず、ただちに憲法草案作成のための準備に取りかかった。民政局のメンバーは陸軍の佐官が  5人、海軍の佐官は3人、陸軍の尉官は5人、海軍の尉官は2人、民間人の男性が4人。女性は、6人。以上を合わせた25人が戦力のすべてだった。三人は、深夜までかかって別表のような組織図を作り上げた。
 この中で、戦争放棄に関する条項は、ケーディス自身が担当することにしたという。

日本国憲法草案作成のための民政局組織図
連合軍最高司令官
ダグラス・
マッカーサー元帥
   
立法権に関する小委員会
   フランク・E・ヘイズ陸軍中佐
   ガイ・J・スウォーブ海軍中佐

   オズボーン・ハウギ海軍中尉
   ガート・ルード・ノーマン 

行政権に関する小委員会
  サイラス・H・ピーク
   ジェイコブ・I・ミラ
   ミルトン・J・エスマン陸軍中尉
人権に関する小委員会
   ピータ・K・ロウスト陸軍中佐
   ハリー・エマーソン・ワイルズ
   ベアテ・シロタ

司法権に関する小委員会
   マイロ・E・ラウエル陸軍中佐
   アルフレッド・R・ハッシ―海軍中佐
   マーガレット・ストーン
地方行政に関する小委員会
   セシル・G・ティルトン陸軍少佐
   ロイ・L・マルコム海軍少佐
   フィリップ・O・キーニ
財政に関する小委員会
   フランク・リゾー陸軍大尉
天皇・条約・授権規定に関する小委員会
   リチャード・A・プール海軍少尉
   ジョージ・A・ネルソン陸軍中尉
秘書
   シャイラ・ヘイズ
   エドナ・ファーガソン
通訳
   ジョセフ・ゴードン陸軍中尉
   I・ハースコウィッツ陸軍中尉
          
 
民政局長
コートニー・
ホイットニー准将
 
        
運営委員会 
チャールズ・L・
ケーディス陸軍大佐
アルフレッド・R・
ハッシ―海軍中佐
マイロ・E・ラウエル
陸軍中佐
 
ルース・エラマン


 















鈴木昭典著『日本国憲法を生んだ密室の九日間』27ページより

「戦争放棄の条文は、さまざまな議論が起こることが予想されましたので、私自身が担当することにしました。おそらく私がやらなかったら、、議論が百出してまとまらなかったと思います」
とケーディスは『日本国憲法を生んだ密室の九日間』のなかで、インタビューに答えて、語っている。
 ケーディスは当時、40歳。ニューヨーク州ニューバーグに1906年に生まれた。コーネル大学とハーバード大学ロースクールを卒業した。学生時代、フランクリンルーズベルトのニューディール政策に影響され、以来「ニューディーラー」を自負している。1930年から33年まで法律事務所で弁護士となり、その後33年から37年まで連邦公共事業局の副法律顧問、37年から42年まで財務省の副法律顧問、そして同じ年の四月から陸軍中尉として軍務についている。歩兵学校、、指揮参謀学校を卒業したのち、陸軍省民事部に配属され、ノルマンディ上陸作戦、アルプス作戦、ラインランド作戦にも参加している。文武に優れた人であった。
 ケーディスの上官のホイットニー准将は、生真面目な軍人で、ときには気にいらない部下を首にすることもあったようだが、ケーディスは、誰とでも気さくに話す陽気な人だったようだ。日本国憲法のモデルプラン作成当時,ケーディスと同じ民政局に勤め、日本国憲法のモデルプラン作成当時、いわゆる女性条項をかいたベアテ・シロタ・ゴードンは
「「非常に頭脳明晰な人でした。憲法草案は彼の力がなかったらできなかったかもしれません。人当たりがよく、社交家でホイットニーとは対照的な人物でした」
と彼を評している。
 戦争放棄条項について、ケーディスはマッカーサーノートの文章を削除することから、作業を始めた。
「重要な変更は、草案を数ヵ所カットしたことです。それは私がやりました。・・・・まず、
〈自己の安全を保持するための手段としての戦争をも〉
という部分をカットしました。さらに
〈日本は、その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる〉
という部分もカットしました。あまりにも理想的で現実的ではないと思ったからです・・・自衛権の放棄を謳った部分をカットした理由はそれが現実離れしていると思ったからです。どんな国でも、自分を守る権利はあるからです。だって個人にも人権があるでしょう?それと同じです。自分の国が攻撃されているのに防衛できないというのは、非現実的だと考えたからですよ」〈『日本国憲法を生んだ密室の九日間』)
 けんかをして相手が殴りかかろうとしてきたら、自衛のために、やり返す。これは、常識的な考えかもしれない。しかし戦争放棄条項は、相手が殴りかかろうとしてきても、自衛権を放棄して、国際世論に訴えるというものである。この条項について
「ケーディスは9条そのものが気に入らなかったようだ」というジャスティン・ウイリアムズ氏。ウイリアム氏は、民政局に勤めていたが、憲法作成当時、漆にかぶれて入院中であった。(『日本国憲法を生んだ密室の九日間』より)
「ケーディスが書いた条項を読むと、数か所マッカーサーが反対しているにもかかわらず、問題提起しているところがあります。彼の提案は、採用されたものもあればそうじゃないものものあります。第九条についてはその後者の方です・・・資料には出てこないが、ケーディスはもっと踏み込んだ訂正をしていたはずだが、受け入れられなかった。彼の提案は採用されたものもあれば、そうじゃないものもある。第九条については、その後者の方です。マッカーサーは五つ星の元帥、ケーディスは非常に優秀であっても、たかだか大佐であった」
 戦争放棄条項は、自己の安全を保持するための手段としての戦争をも放棄し、その防衛と保護とを今や世界を動かしつつある崇高な理想にゆだねる、というものである。敗戦国の首相である幣原が、さまざまな思索の末にたどり着いた戦争放棄条項であるが、ケーディスのような、アメリカという戦勝国の大佐にとって、幣原がたどり着いたいわば『非暴力』の思想はとうてい理解できないものであったかもしれない。ケーディスは、戦争放棄の条項を削除するために、マッカーサーやコートニーにさまざまな提案をしたようだ。そして多くは却下された。そのような状況の中で、戦争放棄条項と一切の軍隊は持たないという思想は、憲法のモデルプランの中に盛り込まれていった。たとえば、ケーディスの提案では、 『自己の安全を保持するための手段としての戦争をも』という部分がカットされ、さらに 『日本は、その防衛と保護を今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる』という部分もカットされ、その代わりに、前段に「武力による威嚇、又は武力の行使は、」が挿入され、『陸軍、海軍、空軍その他の戦力をもつ権能は将来も与えられることはなく』と書きなおして、後段におかれた。
 このような修正を経て、日本国憲法モデルプランではマッカーサーノートの三原則の文章から、とくに戦争放棄条項については最終的につぎのように修正された。
マッカーサーノート 戦争放棄条項
  『国権の発動たる戦争は、廃止する。 陸軍空軍、海軍、日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、廃止する。日本は、その防衛と保護を    今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる』
民政局がだした日本国憲法モデルプランのなかの戦争放棄条項
 『第8条 戦争放棄
  国権の発動たる戦争は、廃止する。いかなる国であれ他の国との紛争解決の手段としては、武力による威嚇、又は武力の行使は、永久に放棄する。陸軍、海軍、空軍その他の戦力をもつ権能は将来も   与えられることはなく、交戦権が国に与えられることもない』
 このようなモデルプランが完成し、ホイットニーは日本側との交渉に臨むことになった。1946年〈昭和21年)2月13日のことである。 

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