天皇の人間宣言
明治憲法では、天皇は国家の元首であり、国民は、その赤子(せきし、赤ん坊のこと)であった。昭和に入って以後、天皇は、現人神として神格化され、事実上は、三権(司法、行政、立法)の他に陸軍の参謀本部、海軍の軍令部があって、統帥権の下に独自の活動をする国家になりはてて、正常な機能を失ってしまっていた。幣原は、組閣直後から、まず天皇を神格化してしまう誤解を解いていたほうがいいと考えていた。
あるとき天皇に幣原が拝謁したところ、天皇は
「昔、ある天皇が病気にかかられ、天皇が、医者を呼んで来い、といわれると、宮中の連中が
『とんでもないことです。天皇は神様でいらっしゃる。それを医者などに玉体を触れさせるということは絶対にいけません』
ということで医者を呼ばなかった。そのため、その天皇はみすみす病気が悪化してなくなられたということがあった。とんでもないことじゃないか」
といわれ、暗に天皇を神格化することへの誤解を解いておきたいという意味のことをほのめかされた。
侍従次長だった木下道雄によれば、
「陛下はいつも現人神といわれるのをきらっておいででした。ある高官が『陛下は神様でおいでだから・・・』と申し上げたとき、陛下が『わたしは神様ではない。人間のオーガン(機能)をもっている』とおっしゃったことがありました」
という。
すでに「スターズ&ストライプス」という進駐軍向けの雑誌で、昭和20年12月14日連合軍総司令部法務部長アルヴァ・C・カーペンター大佐が
「もし確証がある場合は、天皇を戦争犯罪人として審問することに不都合はない」
と言明していた。また、中国からGHQに提出された戦争犯罪人名簿の筆頭に天皇の名が挙げられている、と伝えられたりしており、国内でも天皇の戦犯論や退位論はかますびしくなっている折りで、内外に「人間宣言」をすることで、天皇の地位の防壁になろうと気持ちは濃厚だった。
幣原が人間宣言を起草する経緯については、週刊朝日1961年1月号に奥山益朗という人が書いた『天皇の「人間宣言」草案秘話』と題した記事がくわしい。憲法調査会事務局によって昭和36年3月に資料として残されているのでこれを参考にすると、『人間宣言』が書かれるまでのいきさつはつぎのようである。
12月23日に文部大臣であった前田多門は、幣原に呼び出され、首相官邸に出向いた。幣原は、
「10、11、12と3カ月間政権を担当してどうやら人心も少し安定したし、GHQとの間もうまくいきそうだ。この際、陛下ご自身が『自分は神の末裔ではない』とおっしゃることがいちばんいいと思うのだが・・・・」
と言った。
前田もその意見に賛成すると、幣原は詔書の起草を依頼した。それは大役であったので、前田は内閣書記官長次田大三郎と顔をつき合わせて起草にかかった。
前田と次田によってできた草稿を、25日に幣原が改めて英文で起草した。この日は大正天皇の誕生日の休日で、首相官邸にはほとんど人の出入りがなかった。
詔書の草稿をまず英文で書いたことについて、幣原は次のように書いている。
「昭和20年12月25日は、大正天皇祭の日で家にいると訪問客でうるさいので、私は永田町の首相官邸の私の部屋に一人でいた。静かな雰囲気の中で、私は予て陛下に命ぜられていた詔勅の起草に着手し、一生懸命に書いた。日本より寧ろ外国の人達に印象を与えたいという気持ちが強かったものだから、まず英文で起草し、約半日かかってできた。・・・・」(幣原平和財団発行『幣原喜重郎』)
つまり日本語を英訳して外国の人々に示すより、むしろ英語を日本語訳した方がいいという考えだったようだ。
また、幣原がきわめて英文に堪能で、日常のメモなどに至るまで英文で書いていたことも一因だったかもしれない。さて、幣原苦心の英文草稿は、福島秘書官に邦訳が命じられた。幣原が英文の達人であることを証明するかのように、その英文にはしばしば古典からの引用句が出てくる。「人間宣言」の詔書の中にもそれがあった。詔書の中ほどに
我国民ハトモスレバ焦燥ニ流レ、失意ノ淵ニ沈淪セントスルノ傾キアリ
という一句がある。この「失意ノ淵ニ沈淪シ」というのには、つぎのような引用があった。
ジョン・バニヤン作「天路歴程(ピルグリム・プログレス)」第一部
The name of the slough was Despond.
(その泥沼の名は{落胆}であった)(岩波文庫、竹友藻風訳による)という一句がある。この句から出たSlough of Despond(落胆の泥沼)の文句は、ローレンス、モーム、ドライザー、カーライルらも諸作品に引用している有名な言葉であって、英文草稿には、
People are lible to grow restless and to fall into the slough od
Despond
と使ってある。これを「失意の淵に沈淪」としたのは、翻訳した福島秘書官の苦心の訳であった。
幣原は、すきま風も入り込んでくるような執務室で半日以上閉じこもって、人間宣言の草稿を作成したために、書いた後に風邪をひいて肺炎を引き起こしてしまい、起き上がられなくなってしまう。そのため、詔書の打ち合わせなどは病床の枕頭でおこなうほかなかった。(のちに幣原の病状を聞いたマ元帥から当時まだ日本には少ししか輸入されていなかったペニシリンの注射の寄贈を受けることになる。)
福島秘書官が日本訳した草案は再び前田の手に渡った。暮れもおし迫った12月29日、前田は首相代理という資格で、天皇にお目にかかった。当時、藤田侍従長が病気だったため、取り次ぎなどは専ら侍従次長の木下道雄の役目であった。
御執務室で前田が天皇にお目にかかると、天皇はこういわれた。
「…これで結構だが、これまでも皇室が決して独裁的なものでなかったことを示すために、明治天皇の五箇条の御誓文を加えることはできないだろうか」
退出した前田は、次田大二郎と相談した。御誓文を加えるのはいいが、5つある誓文のうち1つ2つを抽出するのもおかしいし、文章もこわれてしまう。前田は、結局、御誓文全部を一番はじめに加えることにした。 前田は宮内庁で木下といろいろ相談した。天皇も木下に、
「あまりむつかしい字句は使わず,分かりやすくするよう」
と念をおされた。前田と木下は相談しあって、火曜日まで推敲に念を入れ、ようやく完成した。
昭和21年の元日の各紙は、この「人間宣言」の詔書を掲載した。
新日本建設に関する詔書1946(昭和21)年1月1日 茲ニ新年ヲ迎フ。顧ミレバ明治天皇明治ノ初國是トシテ五箇条ノ御誓文ヲ下シ給ヘリ。曰ク、 1.廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ 1.上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フヘシ 1.官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス 1.舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ 1.知識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ 叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ國運ヲ開カント欲ス。須ラク此ノ御趣旨ニ則リ、舊來ノ陋習ヲ去リ、民意ヲ暢達シ、官民擧ゲテ平和主義ニ徹シ、教養豐カニ文化ヲ築キ、以テ民生ノ向上ヲ圖リ、新日本ヲ建設スベシ。 然レドモ朕ハ爾等國民ト共ニ在リ、當ニ利害ヲ同ジクシ休戚ヲ分タント欲ス。朕ト爾等國民トノ間ノ組帶ハ、終止相互ノ信頼ト敬愛ニ依リテ結バレ、單ナル神話ト傳説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ旦日本國民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル觀念ニ基クモノニ非ズ。
朕ノ政府ハ國民ノ試煉ト苦難トヲ緩和センガ爲、アラユル施策ト經營トニ萬全ノ方途ヲ講ズベシ。同時ニ朕ハ我國民ガ時難ニ蹶起シ、當面ノ困苦克服ノ爲ニ、又産業及文運振興ノ爲ニ勇徃センコトヲ希念ス。我國民ガ其ノ公民生活ニ於テ團結シ、相倚リ相扶ケ、寛容相許スノ気風ヲ作興スルニ於テハ能ク我至高ノ傳統ニ恥ヂザル眞價ヲ發揮スルニ至ラン。斯ノ如キハ實ニ我國民ガ人類ノ福祉ト向上トノ爲、絶大ナル貢獻ヲ爲ス所以ナルヲ疑ハザルナリ。 御名御璽 昭和二十一年一月一日 ここに新年を迎えた。かえりみれば、明治天皇が、明治のはじめに、国是として五カ条の御誓文を下し給えた。すなわち、 |
マッカーサー元帥はこの詔書に対して
「天皇は人民の民主主義化を指導した」
と声明した。これは天皇制の維持や天皇戦犯論否定への大きな礎石になった。 幣原は、依然、肺炎の病床の中であったが、ことのほかこのことを喜んだと思われる。