終戦善後策

 国政では、太平洋戦争を終戦へと導いた南貫太郎内閣が総辞職し、東久邇稔彦皇族内閣が成立した。9月2日、アメリカの戦艦ミズーリ号上で、連合国との降伏文書調印式が行われた。この調印式には、日本側から、外務大臣の重光葵と、参謀総長の梅津美治郎が出席し、全権大使として降伏文書に調印した。           
重光は日本を占領統治することになったアメリカ軍が軍政を実施し、日本の紙幣の代わりにアメリカ軍が軍票を流通させようとしていたときに、連合軍総司令官ダグラス・マッカーサーと直接交渉し、
「日本は軍部による支配によって、戦争をしていたのであり軍部は降伏によって降参したが、日本国全体の独立は保たれるべきである。」
と厳重に抗議し、軍票の発行を撤回させた人物である。
重光は、閣議でも「総司令部との交渉は、まず外務省が中心となって行うべきである」

重光葵
 

という持論を展開して、東久邇首相がマッカーサーと会談することも
「時期尚早(しょうそう)である」                                                                      と反対し、ほかの大臣がマッカーサーと会談しようとすることさえ渋ったため、しだいに閣内で孤立していく。最終的には重光は、閣内不一致の責任を取って外務大臣を辞任した。9月15日のことである。後継の外務大臣に選任されたのが、吉田茂であった。                     
吉田は戦前、外務省の奉天総領事まで務めた人物であった。ナチス・ドイツとの接近には常に警戒し、日独防共協定、日独伊三国同盟にも強硬に反対したが、その条約が締結がされると、1939年特命大使となって外交の一線から退き、太平洋戦争の終戦間際には、岳父の牧野伸顕、元首相の近衛文麿の連絡役として和平工作に従事していた。1945年2月に近衛上奏に協力したことが露見し、憲兵隊に40日拘束されたこともあった。しかし、この戦時中の受難が逆に戦後に幸いし、GHQ(連合軍総司令部)の信用を得ることになったのだった。
 のちに吉田の著した『回想10年』(新潮社 昭和32年9月発行)には外務大臣となるてん末が書かれている。
 吉田が隠棲していた鎌倉の自宅に連絡があったのは、9月14日の夕刻であった。
「宮様(東久邇首相)がお会いになりたいとのお達しだから、モーニングを用意して参上するように」
との連絡がきて、やがて迎えの車がやってきた。(何だろう・・・)と思いながらともかくモーニングに着替えて東京に出向くと内閣書記官長の緒方竹虎が、



吉田茂
 

「事情があって重光外務大臣に辞任した。後任の外務大臣となるように」
という。吉田にとって寝耳に水のことであった。第一、吉田は戦前、外務大臣候補となったことがあるものの、吉田の親米派ともいわれる路線を嫌う陸軍の強硬な反対にあって、結局一度も外務大臣になることはなかったのである。吉田は、                           
「経験不足です。幣原(喜重郎)さんとか、池田(成彬)さんとか私よりももっとふさわしい人がいる」               
といってみたが、緒方は、                                                                  
「宮様(東久邇首相)もお待ちだから・・」
と取り合ってくれない。ともかく首相官邸に行くと、東久邇首相からも、
「君、よろしく頼みますよ」
といわれるばかりであった。もう引き受ける以外になかった。その日の深夜に天皇の前にまかり出て親任式が執り行われることになった。ところが、モーニングは用意していたものの、靴がない。
「靴まで用意しろ、とは言わなかったじゃないか」
と吉田は緒方に苦笑したが、仕方なく、借り物の靴で親任式に出た。その靴が大きくて、ブカブカと音を立てるのを抑えながら、吉田は天皇に恭しく頭を下げて、親任式を終えた。       
 外務大臣に就任してまもなく吉田は、幣原を訪ねた。幣原は吉田の外務省での先輩にあたる。幣原が外務省事務次官であったとき、吉田はその下で働いていた。幣原が退官後も、時折訪ねている。終戦間際には、幣原を担ぎ出してて、終戦工作を画策しようとしたこともあったが、幣原から婉曲に断られていた。しかし、今回は、初めて外務大臣となった吉田が就任のあいさつするとともに、外務大臣としての心得、さらには混迷する政局にどう対処していけばいいのかというということも含めて、教えを乞うためであった。幣原は、訪ねてきた吉田にいろいろ話した上で、最後に「文章にまとめて渡しましょう」とまで約束する。政界を引退した幣原は、新しく外務大臣になった吉田に新生日本へ期するものがあったのだろう。
 数日後、幣原から吉田のもとに『終戦善後策』題する文書が届いた。(終戦善後策の原文はこちら)
 それには、日本が今日のような占領状態を脱して、一日も早く独立国として国際社会に復帰するために、政府がなすべき施策を4つの観点から論じていた。
   1、 連合諸国の我が国に対する信頼の念を深らしめること
   2、 敗戦という事実を国民の胸中に銘記すること
   3、 我が国は国際情勢の機宣を逸せず、我が国に有利な新局面の展開を図ること
   4、 政府は、我が国の敗因を調査し、その結果を公表すること。
  そして、さらに幣原は、
  『日本はなぜ、無謀な戦争をしたのか、子々孫々のために、今後2度とこのようなことが起こらないようにするために、その原因を調査し、公表することは政府としての義務である。敗因のうち、次のようなことは少なくともその一部の要素ではないかといえる。』             
として、さらに次の4点を指摘している。
  (1) 統帥権の乱用                                                             
  (2) 自然科学の研究の奨励方法の不備によって、欧米諸国に比べて近代兵器の開発が著しく遅れていたこと
  (3) 空襲による所要資材及び運輸施設の被害を最小限度にするために、その実行方法を調査し、事情の許す限り、整備に努めるべきである。
  (4) 原子爆弾の性能は、科学の見地より公平精密なる検討を加えなければならない。また従来の戦争では、有毒ガスの使用が禁じられているのに、無辜の老幼婦女に同じような被害をおよぼす原子爆弾は許されてよいものか、国際法ないし、人道の問題として注意を喚起するの理由あり。
 (1)の統帥権の乱用について、幣原には苦渋の思い出がある。彼が外務大臣であったとき、昭和5年のロンドン軍縮条約を締結したが、この時、軍部は、大日本帝国憲法の11条にある
   天皇ハ軍ヲ統帥ス
という条項を魔術的に解釈し、
「軍事に関することは、天皇を輔弼する統帥機関によって決定され、天皇に奏上するもので、立法、行政、司法から独立するものである」
として政府を激しく糾弾し、日ごとにその声は大きくなっていった。そして、この年の11月14日、浜口雄幸首相は、東京駅で、暴漢に襲われ瀕死の重傷を負った。(翌年死去)浜口の代理首相となった幣原は、軍縮条約に関する答弁を繰り返したが、軍部と結びついた野党が幣原の答弁に抗議して、国会が紛糾し、10日あまり国会が停頓したこともあった。これは幣原が陳謝するというかたちで事態を収拾されたが、この瞬間から、日本は統帥権は無限、無謬、神聖という神韻を帯び始め、他の三権(立法、行政、司法)から独立するばかりか、超越すると考えられ始め、さらには三権からの容喙も許さなくなっていった。さらにいえば国際紛争や戦争を起こすことについても他の国政機関に対し、帷幄上奏権(いあくじょうそうけん 統帥に関する作戦上の秘密は参謀総長が、首相などを経ず、じかに天皇に上奏することができる)があるために秘密にそれをおこすことができた。つまり、日本国の胎内に別の国家、すなわち『統帥権国家』ができ、天皇の名のもとに軍人が国家を壟断したのだった。(参考 司馬遼太郎『この国のかたち 四、統帥権(四)』文藝春秋)
 戦争指導者たちは、以後15年間に、満州事変、日中戦争、ノモンハン事変、日米開戦、太平洋戦争という軍事行動を統帥権発動という形でおこし、首相以下はあとで知っておどろくだけの滑稽な存在になった。それらの戦争状態を止めることすらできなくなった。国家行為としての“無法の時代”ともいうべき本質の唯一なものが、『統帥権の乱用』である。幣原は、統帥権の乱用に反対した当事者の一人であり、その後、外務大臣を辞任し、事実上、政界から引退した幣原は、日本が統帥権国家となって滅亡していく姿を苦々しく眺めるしかなかったのだった。
 幣原は、統帥権の乱用に関して、
  政治家と軍人の一方が他方の職域を犯すことは綱紀退廃である。双方いずれも本来の職分に専念して初めて、国政が円滑となる。
と強調したのだった。
 (2)の 『自然科学の研究の奨励方法の不備によって、欧米諸国に比べて近代兵器の開発が著しく遅れていたこと』については、論をまたないほど日本の戦略思想は貧弱であったといえる。たとえば太平洋戦争中、日本陸軍が兵士に持たせていた三八式銃は、40年以上前の日露戦争で使用したものとほとんど同型であった。もともと陸軍では、戊辰戦争以来、その勝ち負けは白兵戦で決まるという発想を根本にもっていたため、死を恐れず敵に向かっていく兵士を育成するという精神面の鍛錬が極端に強調され、武器の開発は軽視されるのが伝統であった。しかし銃器の発達した近代戦では、敵に向かって突進する前に勝敗は決しており、突進は命を無駄に投げ出すための行為でしかなかった。その他の火器、兵器についても日本は日露戦争以後ほとんど変わっていなかった、といってよかった。
 海軍でも日露戦争でバルチック艦隊を破って勝利を収めた日露戦争以後、『戦争の帰趨は最後の海戦によって決まる』という発想を持った。第一次世界大戦ではおもな戦場がヨーロッパであったため、日本は戦争にほとんど参加せず、そのために近代戦略を研究し、近代兵器を作るという発想を持たないまま太平洋戦争に突入していったのであった。

 

 
 一方、アメリカは、敵に勝つためにはより高性能の武器を持たなければならないというのが、一般的な感覚である。アメリカが第二次世界大戦に参加した1941年、セオドア・ルーズベルト大統領は、科学技術開発協を設立し、その中に軍事部門として国家防衛調査委員会(National Defence Research Committee NDRC)を置いて、レーダー、艦船、あるいは爆弾などにかかわる科学者や技術者を集め、軍事兵器の開発にあたらせた。開戦当初、ハワイの真珠湾攻撃で、飛行機による攻撃で、手痛い敗北を喫した事も念頭にあったと思われる。
 この研究グループは翌年、M52焼夷弾を開発した。この焼夷弾を有効に活用して大量に投下するために、アメリカ陸軍(Army Air Force)は、ボーイング社と契約を結び大型爆撃機の開発に力をそそぐ。翌年、超大型爆撃機B29が開発された。さらにアメリカ陸軍は、日本本土を空襲する戦略暗号名『マッターホルン』計画を進める。                                             
 この計画では、@B29の大量生産 A高性能焼夷弾の開発 B 航空兵員の育成、という三つの目標が掲げられた。   
 @の目標を達成するためカンサス州カールスモーキー基地に生産ラインを作り、24時間ぶっとうしで稼働させて、最初の1カ月余りで150機のB29を生産し、以後も多数の飛行機を製造していく。 
 Aについては、高性能焼夷弾の開発するために、ハリウッドの協力を得て、ユタ州ソルトレイクの砂漠に東京の下町の街並みを再現し、ヒノキと杉の建材をつかって、日本家屋を12棟つくった。家の中は漆喰と障子で仕切られた畳敷きの部屋があり、ちゃぶ台、座布団、箸や炭火鉢、洗い桶などの台所用品まで置いて、日本家屋を忠実に再現した。この町に焼夷弾を投下し、火災の規模、前章までの時間、全焼しなかったものなどの実験データを取った。この実験データから日本家屋にもっとも大きな破壊力のあるM69という焼夷弾を作り、これが日本空爆の主力兵器となった。
Bについてもアメリカ各地の基地で進められ、多数の操縦士が育成されていった。(以上のことは、E.バートレット・カー/著 大谷勲/訳『戦略・東京大空襲 B29から見た3月10日の真実』光人社を参考にした。)

マッターホルン計画によって、飛行機、爆弾、兵員を配備したアメリカは、1945年春から日本各地の都市への大型爆撃機による大規模な空爆を開始する。これによって日本の都市機能は麻痺し、各地の軍需工場、飛行機製造工場は操業停止に追い込まれて、飛行機、兵器などの製造を断念せざるを得なくなってしまった。また、たとえ飛行機を製造できたとしてもすでに特攻作戦で優秀な操縦士を多く失っており、まともに操縦できるものは少なくなっていた。
 日本陸軍では、末期には、兵器として気球を作り始めている。気球の下に爆弾をつり下げ、日本の上空を吹いているジェット気流と呼ばれる偏西風によって、太平洋上空8000キロを超えてアメリカ本土に到達させ、直接攻撃しようという作戦であった。『新兵器春風ふ号』と名付けれたこの武器について海軍はその効果を疑問視して計画を中止したが、陸軍の参謀本部は「ジェット気流こそ日本を勝利に導く神風である」として独自に作戦を立て遂行していく。 昭和19年夏ごろから、日本各地の軍需工場で、気球本体や取り付ける爆弾や信管の生産が始まり、昭和20年の3月までに15000個打ち上げる計画が大本営から発表された。11月7日に打ち上げられた最初の500個は、発射基地となった茨城県大津基地で発射された。
「撃て!」
という小隊長の命令とともに兵士がいっせいにロープを放すと、白い球体がふわふわと舞いあがった。その戦果について昭和19年12月18日付朝日新聞は、「日本の気球爆弾、米国本土を襲う。各地に爆発火災事件…アメリカ本土に異常な衝撃を与えるにいたった。」
と報じたが、実際には、送電線にひっかかった気球によって、工場の操業が3日止まった程度で、人的被害は皆無であった。昭和20年5月5日、オレゴン州の山中にハイキングに来た牧師一家6人が,木に引っかかっていた風船爆弾の信管に触れて亡くなる事件があり、これは太平洋戦争中、アメリカ本土で民間人が受けた唯一の被害であった。
 風船爆弾は昭和20年3月までに約9000個打ち上げられたが、発射した多くの風船が風に戻されて、国内に落下したりして、アメリカ本土への攻撃の効果が確認できなかったこと、それから空爆によって各地の軍需工場が相当の被害を受け、気球本体や爆弾の生産さえできなくなったこともあり、発射中止となった。
 『マッターホルン計画」を3年かけて実施し、日本各地に容赦のない空爆を実施したアメリカと『風船爆弾』を起死回生の最終兵器とした日本の兵器開発のレベルをみただけでも、日本には到底勝ち目のない戦争であったといえる。幣原が、『終戦善後策』のなかで、3番目に指摘したのは、アメリカ軍が実行した『空爆』という新しい戦略であった。アメリカ軍のB29大型爆撃機による戦略的空爆によって日本が受けた物的被害、失った人命、精神的打撃は計り知れないと幣原は指摘し、
 『空爆による資材運輸施設の被害を最小限度にするためにその実効方法を調査し、事情の許す限り整備に努めるべきである。』
と言及していた。

  幣原が敗因として最後に指摘したのは、『原子爆弾』のことである。 この兵器のすさまじい威力と、その後の街の様子を最初に報じたのは、9月5日付のイギリスの新聞『デイリーエキスプレス』であった。
 この日の新聞の一面には『ノーモア・ヒロシマ』という大きな見出しとともに、ピーター・バーチェット記者が、連合軍側の記者として初めて現地取材した記事が掲載されていた。
 
 広島は、爆撃を受けた都市の様相を呈していない。怪物大のローラーが通り過ぎ、木っ端微塵に抹殺壊滅したようだ。私はこれらの事実を感情にとらわれずに記述し、それが世界の警告となるように心から希求する この原爆の最初の実験場で、私は4年の戦争期間中、最も恐ろしい戦慄すべき荒廃の姿をこの目で見た。これに比べると、電撃戦に見舞われた太平洋諸島の島々は、まるでエデンの園のようなものである。損失の度合いは写真で見るものよりはるかに大きい。広島につくと、25あるいは30平方マイルを見渡しても、ほとんど建物らしい建物が見受けられない。これほどひどい人間による破壊を見ると、腹の中が空っぽになるような気分にさせられる。爆弾の落ちた時に全然傷を負わなかったが、今ははっきりとした原因もなく、どんどん病弱になっていく人々が病院に収容されていた。食欲がなくなる、髪の毛が抜ける、体には青い斑点が現れた。そして、鼻、口からも出血した。医者は、最初これらは一般の衰弱の兆候だろうと思い、患者にはビタミンAの注射をした。結果は恐ろしいものだった。注射   針でできた穴のところから皮膚が腐り始めた。そしてその場合、いずれの場合にも被爆者は死亡した。・・・・また、爆心地に近いところでは、何千とあったはずの死者の痕跡がない。焼失したのだ。人々の説では、原子力の熱があまりにも高いので、一瞬に灰燼に帰したのだーと。ただそこには灰すら残らなかった。 

 日本の新聞でも9月10日付の『読売報知』が『原子爆弾1ヶ月後の現地、長崎にて』という見出しの記事を掲載した。署名は、宮本、押川両特派員発とある。

  長崎駅に入る一つ手前が浦上駅である。線路に沿って逆行すると、すぐ右手の丘の上に浦上天主堂の残骸が見えた。・・・工場街は、ひん曲った鉄骨の高く低く累々と横たわり、市の廃墟。ふつうの家はみなこなごなに砕け散った木片、がれきの死の町。周りの山々はどこまでも赤く焼けただれたがれきの林だった。浦上天主堂には、当時教舎主管西田三郎など約40人いたが、みな崩れ落ちた建物の下になって即死し、すでに1カ月近くになるのに、死体の発掘には手が付いていない。鬼哭啾啾(筆者注、きこくしゅうしゅう浮かばれぬ霊が恨めしさに泣くこと,鬼気迫ってものすごいさま)たる正面入り口に立って、犠牲者の冥福を祈る記者の足元に、一丈5尺もあるキリストらしい石像が転がっていた。はっとして足を引くと、この石像には、首がない。帰途、上り口の石畳の上に発見した首は、ひげの先をちょっと傷めただけで、奇跡でも起こったように、まっすぐに立ち、真っ赤な夕陽を正面に見つめていた。
  牧師たちは、あの日以来、信者の死の床を巡回し、1日に200人から300人の人に昇天の祈祷を捧げて歩いたという。田川伊勢松牧師は言う。
「両親を亡くしたという8歳を頭に3人の子どもを訪ねたところ、3人とも頭髪が抜け始めて青い顔をしているのに元気で遊んでいた。父を亡くして1人残った娘が、2,3の信者に看取られ死の床に苦しんでいるのを今もなぐさめてきたところです。」 
 戦争は終わった。われわれはポツダム宣言をいかなる国民よりも忠実に実行する勇気をもっている。ただし、戦争の終った現在、なおこういう猛威をふるっている事実をアメリカはもとより世界人類の前にはっきりとさせたい。我々は、世界の人たちとともに広島、長崎の人たちに救護の手を差し伸べ、原子爆弾の今後の取り扱いについて根本的な解決を提唱するものである

 読売報知には、この記事とともに地面に転がるマリア像が夕陽を見つめている写真が掲載されていた。
 幣原は『終戦善後策』の中で、原子爆弾について
「原子爆弾の性能は、科学の見地より公平精密なる検討を加えなければならない。また従来の戦争では、毒ガスの使用が禁じられているのに、無辜の老幼婦女に同じような被害をおよぼす原子爆弾は許されてよいものだろうか。国際法、ないし人道の問題として列国の注意を喚起するの理由あり」
としめくくった。
 『終戦善後策』は、終戦の日以来、幣原が家に閉じこもって、 あふれるような思いで渾身の力を込めてつづった文章がもとになっている。それを外務大臣となった吉田を相手に、日本がこれまで進んできた誤った道筋を冷静に解き、これから進むべき道筋について述べていた。
                                    
                                                                                                      
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