首相就任
 
 吉田の自伝(吉田茂 『外交10年』)には、マッカーサーと会談するときに次のような話が、えがかれている。
 外務大臣となった吉田は、マッカーサーと何度か会談した。吉田はある程度英語ができるので、通訳なしでマッカーサーと話をすることができる。ある時、マッカーサーは、吉田に話し始めた。マッカーサーは一度話し始めると、大変、長話になることが常であった。いつ果てるともなく続くマッカーサーの話を吉田は黙って聞くしかなかった。1時間過ぎたころ、マッカーサーは、うなずいているばかりの吉田に
「私の話がわかったのか」と問うた。吉田は、静かに答えて、いわく
「あなたは長々と話をしている。私はライオンの檻に入れられたウサギのようにおびえながら黙って聞いているしかありません。」
 マッカーサーは最初、吉田のジョークの意味を理解しかねて、一瞬、怒ったような表情をしたが、やがてその意味が判ったらしく、
「面白いやつだ」
というように笑い出し、そうして吉田のポケットにチョコレートをねじ込んだ。マッカーサーは気にいった相手にはチョコレートなどを差し出して、ポケットにねじ込むことが多かった。彼は天皇とも何度か会談したが、時折天皇にさえ、チョコレートをポケットの中に入れたようである。ともかくこのことをきっかけにして吉田はマッカーサーと良好な関係を築くことができるようになったようだ。
 吉田が外務大臣に就任して半月も経たない10月4日、東久邇内閣を大いに動揺させる出来事が起こった。内務大臣であった山本巌がイギリスの新聞記者の質問に答えて、「秘密警察はなお活動している」という趣旨の発言をし、これが総司令部内に読者をもつ『スター・アンド・ストライブ』誌に掲載されたのである。この記事が掲載されると、総司令部は直ちに反応し、その日のうちに東久邇内閣に山本の罷免を求め、秘密警察の解体を命じた。内閣は総司令部の命に従がって、特別警察の解体を命令するとともに、同時にこれ以上、政権を維持することは困難である、として総辞職したのだった。
 この当時、首相を決めるのは最終的には、天皇の権限であったが、首相を推戴するのは、枢密院の役割であった。枢密院の木戸幸一と近衛文麿で協議がもたれたが、軍人官僚などはほとんど戦争犯罪人として起訴される可能性もあり、候補者は限られていた。最初に首相候補として名前が挙がったのは、吉田であった。            
 吉田は戦前に退官し、岳父の牧野伸顕の下で、終戦工作を画策していたが、そのことが露見して憲兵隊に拘束されたこともあった。が、今となっては、このことが首相候補としての好条件となった。さっそく吉田を宮内省に呼び出して「今度こそいよいよ貴公がやる番だ。それよりほかは手がないよ」
と出馬を要請したが、吉田は、
「自分には到底無理である」                                                                    
という。吉田には、事務次官の経験はあったものの、外務大臣として内閣の一員となったのは今回が初めてである。しかも、大臣となってからまだ半月余りしかたっていない。そんな自分が、いきなり首相となるのは、困難である、というのだ。吉田は、
「僕は絶対にだめだが、この際は幣原さんが最適任者だ。僕が話してみればおそらく承諾してくれるだろう」
と自信ありげに発議した。吉田は、幣原から受け取った『終戦善後策』のことも二人に話したのであろう。新生日本の出発には幣原さんこそが適任である、と熱弁した。 枢密院で了承を得た吉田は、さっそく世田谷にある幣原の私邸に向かった。幣原の私邸に着いたのは、その日の夜の8時前後だったようだ。2,3日前から、秋の長雨が降り続いていた。幣原の私邸につくと玄関からあふれるように、荷造りされた荷物が並べられていた。応接室に入るのさえ、荷物が山積みされた隙間の通路を通っていかなければならならないほどだった。
 応接に出た幣原を前に、さっそく吉田は、
「首相候補に推戴されています。ぜひとも受けてください」
と伝えたが、意外なことに幣原は、
「鎌倉に引っ越して読書三昧の暮らしをするつもりである。引越しの荷造りも終わり、ようやく調達したトラックを待っているのだが、この2,3日の雨で、引越しが延びている」
として受けようとしない。幣原としては、『終戦善後策』を吉田に手渡したことで、自分が政府に貢献できる責務は果たしたと考えていて、鎌倉に引退しようと決めていた。総理大臣になるなど思いもよらないことであった。1時間余り説得しても、なかなか首を縦に振らない幣原に、吉田は、
「官邸ではあなた以外の首相候補者をもちませんからそのおつもりで」
というような言葉を残して、幣原邸を辞去する。
  翌朝は、ようやく雨が上がり、秋晴れの好天であった。幣原一家は、トラックを待っていたのだが、トラックより先に御料車(宮内省からの車)が到着し、侍従長が出てきて幣原に手紙を手渡した。宮内省にただちに参内するように、というお召の手紙であった。前日、宮内省に戻った吉田が、木戸と相談し、トラックが来る前に、先回りして車を手配したのだった。宮内省からの直々の呼び出しとあれば、ともかくも行かなければならない。幣原は引っ越し荷物の中から、参内用の礼服をとりだして、家の者に、「ちょっと行ってくる」と伝えて車に乗り込んだ。
 皇居には昼ごろついた。木戸は昼食を幣原に勧め、
「陛下が、首相就任を求めておられる。」
という意味のことを述べた。幣原はそこでも、
「大任で私のような老齢では果たすことができません」
と言い、首相就任を断っている。昼食後、次の部屋で天皇に謁見した。天皇は幣原に椅子をすすめ、自らも椅子に腰かけ、そして、
「総理大臣を引き受けてくれぬか」
と、問うた。
「ありがたいお言葉とは存じますが、・・・・」
と幣原は、礼を述べた上で、
「私どもは近年著しく老衰してきております。元々内政問題に対する興味は皆無でございまして到底このような難局を処理する自信がありません。またこの自信なくして国政を担任することは良心の呵責に堪えざることです」
と、到底総理大臣を引き受けることはできないと、申し述べた。 これを聞いた天皇は、いかにも困った様子で、
「こんな時局に自信をもちうるものがいるであろうか。おそらく一人としてあるまい。この際こそ勇気を奮って出馬してくれるべきではないか」
と、なおも諄々と諭した。
(陛下は、独り国家の行く末を憂いておられる)
 天皇のこのような様子を拝した幣原は、感激し、(この際、一身を犠牲にしてでもこの大任を拝受しなければならない)と決意し、ついに天皇の大命を拝受した。
 73歳となった幣原は14年ぶりに再び政界に返り咲いて首相となり、新憲法の制定にむけて重要な役割を果たしていくことになる。


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