統帥権

 従来、明治憲法では司法、立法、行政の三権に分かれて、それぞれ政治をつかさどっていたが、第11条に『天皇ハ軍ヲ統帥ス』という一条があった。元首たる天皇は、議会の承認を経ずに独自に軍隊を動かすことができるというものである。
 大日本帝国憲法が制定される1890年(明治23年)までは、その位置づけが未だ充分ではない点もあったが、憲法制定後は軍事大権については、憲法上内閣から独立し、直接天皇の統帥権に属するものとされた。
 軍事作戦は陸軍参謀総長と海軍軍令部総長が輔弼(ほひつ)する。輔弼とは日本帝国憲法の観念で、天皇の行為としてなされること、あるいになされないことについて進言し、その全責任を負うこと。彼らが帷幄上奏(いあくじょうそう)して、天皇の裁可を経て、その奉勅命令を執行する。平時は、陸海軍大臣が天皇に執行する役割を果たした。帷幄上奏(いあくじょうそう)とは、君主国家において、帷幄機関である軍部が軍事に関する事項を君主に対して上奏すること。帷幄とは「帷をめぐらせた場所」のことで、転じて君主、すなわち天皇を指す言葉である。 
 1894年の日清戦争、1904年の日露戦争においては、元首たる天皇の裁可のもと、統帥権はいわば正常に機能した。 しかしながら1914年の第一次世界大戦には、戦線が主にヨーロッパであったため、日本はほとんど戦争に参加しなかった。この間、日本は一時的な軍事特需で、船舶、武器その他、外国の注文に応じて輸出し、それまで債務国であったのが、一躍債権国になり、この好景気にともなって大小の成金(なりきん 一時的に金銭を得た人々)も多数出現した。しかし第一次世界大戦が終結すると
、この好景気も終息していく。

 






   山梨半造

 第一次世界大戦後も際限なく繰り広げられる軍拡を制限するため、1921年(大正9年)11月11日から1922年(大正10年)2月6日までアメリカ合衆国のワシントンD.Cでワシントン会議が開催される。この会議で、アメリカ、イギリス、フランス、日本、イタリアの戦艦、航空母艦などの保有の制限などが取り決められ、日本も含めた5カ国でワシントン軍縮条約に締結、調印する。
 陸軍でも、1922年以降、第一次世界大戦後の世界的な軍縮の流れに従って山梨半造陸軍大臣及び宇垣一成陸軍大臣の下で3次にわたる軍縮が行われ、4個師団(第13師団・第15師団・第17師団・第18師団)や多数の陸軍幼年学校などが廃止され、陸軍は平時編制の3分の1(将兵約10万人)が削減された。ところが師団の数は維持した(将官のポストは減らさなかった)山梨軍縮とは違い、宇垣軍縮は、将官の整理もおこなっていく。これに追い打ちをかけるように発生したのが、大正12年(1923年)の関東大震災であった。この関東大震災によってそれまでに蓄積した貨財が一瞬にして吹き飛び、日本は再び元の債務国に戻ってしまう。
 1925年(大正14年)陸軍は、宇垣軍縮を実行したことによって、余裕の出来た予算により、航空兵科の独立・陸軍自動車学校と、陸軍通信学校および陸軍飛行学校2校の新設・1個戦車連隊と高射砲連隊および2個飛行連隊の新編成などが行われ、平時定員を減らしつつ有事における動員兵員数を確保するため、学校教練制度を創設して中学校等以上の学校に陸軍現役将校を配属(学校配属将校)することとした。これは陸軍の「体質改善」(近代化)を目指したものであったが、これによって陸軍内部に深刻な衝撃を与え、派閥抗争の激化を招いていくことになる。
 1930年、ロンドンにおいて、補助艦保有量制限を主な目的として、イギリス首相ラムゼイ・マクドナルドの提唱により、軍縮会議が開かれた。これは1922年に締結されたワシントン海軍軍縮会議では








    宇垣一成

、巡洋艦以下の補助艦艇の建造数については無制限であったため、各国とも条約内で可能な限り、高性能な艦を建造し、特に日本の建造した妙高型重巡洋艦は、他国のそれを上回る性能をもったため、これを制限するために開催されたのである。
 当時の浜口内閣は、経済の実態に合わない第一次世界大戦前の相場水準による金解禁を実施したばかりであり、為替相場を戦前水準のまま維持させるためには大幅な歳出削減を伴う緊縮財政を必要としていた。このため、内閣の立場からすれば、日本と他の列強との軍事的なバランスを考慮しつつ、軍縮を推進して、海軍予算を削減することが望まれていた。
 日本は若槻禮次郎元総理を首席全権、斎藤博外務省情報局長を政府代表として派遣し、万全の態勢をとってロンドン軍縮会議に臨み、最終的には、日本の補助艦対米比、6.6975とするなどの妥協を引き出し、条約に調印する。この比率は日米における工業力の差がケタ違いであったことを考慮すると破格に近いものであったが、それでも軍令部は重巡洋艦保有量が対米6割に抑えられたこと、潜水艦保有量が希望量に達しなかったことの2点を理由に、条約拒否の方針を唱えた。
 1930年10月2日にロンドン海軍軍縮条約の批准にはこぎつけたものの、マスコミや野党も、希望量を達成できずに条約に調印してしまったこと、フランスなどのように、日本も条約を部分参加にとどめなかったことへの批判が噴出した。
 海軍軍令部総長、加藤寛治大将などロンドン海軍軍縮条約の強行反対派(艦隊派)は統帥権を拡大解釈し、
「兵力量の決定も統帥権に関係する」







   加藤寛治 

として、浜口雄幸内閣が海軍軍令部の意に反して軍縮条約を締結したのは、統帥権の独立を犯したものだ、として攻撃した。さらに1930年(昭和5年)始まった帝国議会衆議院本会議で、野党の政友会総裁の犬養毅と鳩山一郎は、ロンドン海軍軍縮条約は軍令部が要求していた補助艦対米比七割に満たないことに触れ、
「軍令部の反対意見を無視した条約調印は統帥権の干犯である」
と政府を攻撃した。
 ロンドン海軍軍縮条約締結に反対する軍令部長加藤寛治が条約反対の帷幄上奏をおこなおうとしたが、侍従長で前任の軍令部長でもある鈴木貫太郎が「軍令部長の権限を逸脱する」と反対したため帷幄上奏が行えず、条約締結後に加藤は帷幄上奏を行って辞表を提出した。
 条約の批准権は昭和天皇にあった。浜口総理は、反対論を押し切り帝国議会で可決を得、その後昭和天皇に裁可を求め上奏した。昭和天皇は枢密院へ諮詢、10月1日同院本会議で可決、翌日昭和天皇は裁可した。こうしてロンドン海軍軍縮条約は批准された。しかし、このことに不満をもつ右翼団体の青年に浜口は、東京駅で狙撃されて重傷を負う。11月4日のことであった。
 ひん死の浜口に代わって外務大臣であった幣原が代理首相となった。
 国会では、ロンドン海軍軍縮条約の批准をめぐって政府の答弁が始まろうとしていた。このあたりを幣原喜重郎の『外交50年』にはつぎのように描かれている。
 
 私(幣原)は、開口一番
「一体海軍条約がどうして御諮詢になったかということを考えれば、それは大権干犯でないということは明瞭である」
といった。すると、政友会の森恪がひょいと手を挙げた。すると政友会の一団が「うわあっ」と騒ぎだした。幣原が袞竜の袖に隠れた
(=天子の威徳の下にかくれて勝手なことをする)といって騒ぐのである。
私は引き続いて
「御諮じゅんの奏請に海軍大臣が署名したことは、政府が軍の権限を犯したものでないということは明瞭な証拠ではないか。また軍事参議官会議の議決を無視したものではないことも、それによって明らかである・・・・・・」
という意味のことを発言しようとしたのであるが、ただもう「うわあーうわあ」で私に一言も口を開かせない。それで予算委員会はいったん休憩になった。
 予算員会が再開になったので、私が出席しようとすると、他の閣僚が危ないからよせという。私が「なに危ないことはない」といって出た。私が出るとまた騒ぎだして、委員長がまた休憩を宣した。

 このような状態が続き、国会は空転する。結局十日後に、幣原が失言であった、と陳謝することで一応の決着することになる。このことによって統帥権は、国会といえども犯しえない天皇が持つ大権という既成事実が作られた。天皇は事実上無答責であったから、天皇を輔弼する陸軍参謀総長と海軍軍令部総長が実質的な決定をする。さらに関東軍の一部が暴発して起きた柳条溝事件やそれにつづく満州事変を陸軍本部が事実上追認することしかできなくなっていく。
 昭和6年に首相となった犬養毅は軍縮を実行しようとしたが、5・15事件で決起将校に暗殺され、日本は政党政治の終焉を迎えた。以後昭和20年8月15日、敗戦によって無条件降伏するまで、日本は司法、行政、立法という三権のほかに「統帥権」という独立した権力が支配するいびつな国家形態となっていく。

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