読谷村の憲法九条碑
 
 次に見に行ったのは、読谷村の九条碑である。読谷村の役場の前に着いたとき、碑は、役場の前に掲げられていた。炎をあしらったような石碑とその下に九条の条文が書かれている。読谷村の職員たちによって作られた碑であるという。 沖縄県の読谷村の海岸は、1945年4月1日に1400隻〜1500隻の艦船と183000人の兵員で沖縄上陸作戦が決行されたところである。そのとき日本軍の主力は首里方面に移動していたので、わずかな兵力しか残っておらず、ほとんど無抵抗で上陸し、その日のうちに北飛行場(読谷)、中飛行場(嘉手納)は、占領される。そしてアメリカ軍の進攻にともなって、補給基地となり、6月23日に日本軍が降伏した後も、読谷村は、アメリカ軍に接収されたままとなった。
 村民にようやく帰村が許されたのは、戦後の1946年8月のことである。そのときには村地の95%が米軍占有地であり、沖縄戦を生き延びた14000人が住むには、米軍基地の存在はあまりにも大きかった。インターネットで検索した論文『軍用地の跡地利用と平和むらづくりー沖縄県読谷村の事例』(沖縄県本部/沖縄県読谷村役場 小橋川清弘著)によると、読谷村の戦後は次のようである。1952年4月28日(対日講和条約発効時)
 米軍基地 村土の約80%
1972年5月15日
 米軍基地 村土の約73%
 このような状況を打開するために、読谷村では、米軍基地となっていた村土のなかに、運動広場、多目的広場、野球場、大型駐車場、役場庁舎、文化センターなどを次々に建設していく。これは、日米地位協定第2条4(a)「合衆国軍隊が施設及び区域を一時的に使用していないときは、日本国政府は、臨時にそのような施設及び区域をみずから使用し、又は日本国民に使用させることができる。ただし、この使用が、合衆国軍隊による当該施設及び区域の正規の使用目的にとって有害でないことが合同委員会を通じて両政府間に合意された場合に限る。」という規定によるものであるという。。そうして、このような読谷村の人々の努力によって2006年7月31日に庁舎や文化センターが建った部分を含め、読谷飛行場の一部約140ヘクタールが返還された。しかしながら、それでも2010年3月現在、いまだに村土の約40%を米軍基地が占める。   役場の正面には次のような垂れ幕が掲げられている。
              
            政府は日米地位協定を根本的に見直せ                                           2010年1月  読谷村
  
読谷村については、山内徳信(2010年現在 参議院議員)という人の存在を抜きにして語れない。山内氏は、読谷村の村長として、アメリカ軍と対峙してきた人である。日米両政府による被疑者軍人の日本側への身柄引き渡しを早急に行え
被疑者に対する謝罪と完全な補償を早急に行え
日米地位協定の抜本的見直しを行え
米軍人の綱紀を粛正し、米軍人、軍属による犯罪を根絶すること
 山内氏は、10歳の時、沖縄戦にあい、戦地を逃げ回ったという。 高校生の時、憲法第九条に触れて、大感激し、以来、憲法第九条と憲法99条(天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官、その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う)を行動原理としてしている。17年間、高校教師を務めた後、村長になったが、その時この条文を村長室に掲げ、条文が表す精神を行動原理として、米軍と戦ってきたという。
 インターネットサイト『マガジン9条』 070523 『この人に聞きたい。山内徳信さんに聞いた。その2『命どぅ宝』の心を取り戻そう』のなかで、山内氏が次のように語る部分は、読む者の心を打たずにはいられない。
  『
読谷村は沖縄戦での米軍の上陸地点です。私たちの集落には2つの大きな鍾乳洞がありました。住民はそこに逃  げ込んだんですが、爆弾を打ち込まれて天井の岩がドドドーンッと落ちてきた。多くの人がおし潰された。そこ  で24名の人が死んだ。その中には私の同級生もおれば、私がとても慕っていた宗一という友人もいた。彼の遺骨    を拾えたのは、やっと復帰後のことでした。12トンの起重機を借りてきて、彼の上の4トンの岩をとりのぞ  き、ようやく見つけた彼の頭蓋骨を、私は何度もさすってやった。  
  私が、読谷村を訪れたとき(平成22年1月24日)、サトウキビ畑の中に中学を建設中であった。五階建ての立派な施設である。それは、村地の米軍からの返還を求めて、今もなお戦い続ける読谷村の人々の抵抗の象徴のようにも思えた。 
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